交代の前に、梅津中将は、近衛首相の方に注文を付けて、次の様に申し出た。
「自分は次官を辞めるが、その代わり次官の交代は板垣中将が大臣に就任する前に、東條英機を次官の後任として決定するから諒承してもらいたい」。
風見官房長官の話では、次官人事で前もって内閣に諒解を求めるのは軍部外のものだけだったので、東條中将の次官就任については内閣としては予め下相談を受けていないとのことだった。
近衛首相は、五月十二日、内閣改造の構想で、「陸軍は板垣と東條のコンビでやりたい」と、原田熊男に打ち明けている。
その時、「板垣中将のような西郷隆盛式の男には、東條中将のような緻密な人を付けたら良いと思う」と述べている。
このことから、政府の後任次官としての希望と、杉山大将、梅津中将らが推す、東條中将が偶然一致したのかもしれない。
だが、近衛公は、後日、大きな期待をかけた板垣陸軍大臣が十分手腕を発揮できなかったことを、東條次官のせいであるとして、次の様に述べている。
「折角大きな期待を板垣新陸相にかけたものであったが、遂にその期待が裏切られるに至ったのは、杉山、梅津がその置土産に東條英機を次官に据えたせいだ。あの場合は気が付かなかったが、東條は梅津と同心一体の存在だったのだ」。
梅津中将らが東條中将を推薦した真意は、当時、支那事変は今や拡大の一途をたどり、近く漢口攻略も時間の問題とされている極めて軍部にとって緊要な時期だった。
だが、新大臣は殆ど中央の職務に就いていないので、事務的に補佐することを期待して東條中将に白羽の矢を立てた。
その後、東條次官がやりすぎて、板垣陸相がロボット扱いされたと見えた。
以前、近衛首相に、陸相候補として原田熊男が梅津中将を推薦したところ、近衛首相は「梅津ではやっていけぬ。板垣を希望する」と話した。
さらに、近衛首相は「もし梅津が陸相になる位なら、自分は内閣を投げだす」とまで、言い放ったのだ。梅津次官の陸軍大臣昇格に反対した。
この発言の裏には、当時の陸軍省の首脳が、勝手に何か事を起こしておいて、首相に対しては何も話さず、予算と責任を持ってくるようなやり方に対して、近衛首相としては、やりきれない感情が一杯だった。
それは、梅津陸軍次官としては、杉山大将が陸軍大臣として総理と折衝していたので、直接表面に出ることは殆どなかったのである。
それに対して、海軍大臣・米内光政大将、海軍次官・山本五十六中将は、近衛総理と親しく業務上の連絡も密接であった。
陸軍では閣議で作戦上の内容を話すと、秘密が洩れるとして説明を充分にしないので、近衛総理は陸軍の態度に強い不満を持っていた。従って、梅津中将の人柄や識見についても殆ど判っていなかったのである。
昭和十二年十月企画院調査官に任ぜられた池田純久(いけだ・すみひさ)中佐(大分・陸士二八・陸大三六・東京帝国大学経済学部卒・資源局企画部第一課長・企画院調査官・歩兵大佐・歩兵第四五連隊長・奉天特務機関長・関東軍参謀・少将・関東軍第五課長・関東軍総参謀副長兼在満州国大使館附武官・中将・内閣綜合計画局長官・終戦・戦後歌舞伎座サービス会社社長・昭和四十三年四月死去・享年七十三歳)は、当時、近衛首相周辺と接触していた。
昭和十三年四月末、近衛首相から、企画院調査官・池田純久大佐に、来訪するように電話があった。近衛首相とは、以前数回訪問して意見を交換した間柄だった。
企画院調査官・池田純久大佐が荻外荘を訪れると、近衛首相は挨拶もそこそこに、次の様に言った。
「池田君、梅津君は君と同郷だそうだね。梅津の陸軍か陸軍の梅津か、と言われるほどの偉い将軍だそうだね。しかし近衛内閣倒壊の陰謀を持っている様子だってね」。
近衛首相から、このような言葉を聞こうとは、企画院調査官・池田純久大佐は思っていなかった。そこで、次の様に答えた。
「とんでもない。梅津将軍はそんな政治的陰謀のできる人ではありません。そんな陰謀は将軍の最も嫌いなことです」。
「自分は次官を辞めるが、その代わり次官の交代は板垣中将が大臣に就任する前に、東條英機を次官の後任として決定するから諒承してもらいたい」。
風見官房長官の話では、次官人事で前もって内閣に諒解を求めるのは軍部外のものだけだったので、東條中将の次官就任については内閣としては予め下相談を受けていないとのことだった。
近衛首相は、五月十二日、内閣改造の構想で、「陸軍は板垣と東條のコンビでやりたい」と、原田熊男に打ち明けている。
その時、「板垣中将のような西郷隆盛式の男には、東條中将のような緻密な人を付けたら良いと思う」と述べている。
このことから、政府の後任次官としての希望と、杉山大将、梅津中将らが推す、東條中将が偶然一致したのかもしれない。
だが、近衛公は、後日、大きな期待をかけた板垣陸軍大臣が十分手腕を発揮できなかったことを、東條次官のせいであるとして、次の様に述べている。
「折角大きな期待を板垣新陸相にかけたものであったが、遂にその期待が裏切られるに至ったのは、杉山、梅津がその置土産に東條英機を次官に据えたせいだ。あの場合は気が付かなかったが、東條は梅津と同心一体の存在だったのだ」。
梅津中将らが東條中将を推薦した真意は、当時、支那事変は今や拡大の一途をたどり、近く漢口攻略も時間の問題とされている極めて軍部にとって緊要な時期だった。
だが、新大臣は殆ど中央の職務に就いていないので、事務的に補佐することを期待して東條中将に白羽の矢を立てた。
その後、東條次官がやりすぎて、板垣陸相がロボット扱いされたと見えた。
以前、近衛首相に、陸相候補として原田熊男が梅津中将を推薦したところ、近衛首相は「梅津ではやっていけぬ。板垣を希望する」と話した。
さらに、近衛首相は「もし梅津が陸相になる位なら、自分は内閣を投げだす」とまで、言い放ったのだ。梅津次官の陸軍大臣昇格に反対した。
この発言の裏には、当時の陸軍省の首脳が、勝手に何か事を起こしておいて、首相に対しては何も話さず、予算と責任を持ってくるようなやり方に対して、近衛首相としては、やりきれない感情が一杯だった。
それは、梅津陸軍次官としては、杉山大将が陸軍大臣として総理と折衝していたので、直接表面に出ることは殆どなかったのである。
それに対して、海軍大臣・米内光政大将、海軍次官・山本五十六中将は、近衛総理と親しく業務上の連絡も密接であった。
陸軍では閣議で作戦上の内容を話すと、秘密が洩れるとして説明を充分にしないので、近衛総理は陸軍の態度に強い不満を持っていた。従って、梅津中将の人柄や識見についても殆ど判っていなかったのである。
昭和十二年十月企画院調査官に任ぜられた池田純久(いけだ・すみひさ)中佐(大分・陸士二八・陸大三六・東京帝国大学経済学部卒・資源局企画部第一課長・企画院調査官・歩兵大佐・歩兵第四五連隊長・奉天特務機関長・関東軍参謀・少将・関東軍第五課長・関東軍総参謀副長兼在満州国大使館附武官・中将・内閣綜合計画局長官・終戦・戦後歌舞伎座サービス会社社長・昭和四十三年四月死去・享年七十三歳)は、当時、近衛首相周辺と接触していた。
昭和十三年四月末、近衛首相から、企画院調査官・池田純久大佐に、来訪するように電話があった。近衛首相とは、以前数回訪問して意見を交換した間柄だった。
企画院調査官・池田純久大佐が荻外荘を訪れると、近衛首相は挨拶もそこそこに、次の様に言った。
「池田君、梅津君は君と同郷だそうだね。梅津の陸軍か陸軍の梅津か、と言われるほどの偉い将軍だそうだね。しかし近衛内閣倒壊の陰謀を持っている様子だってね」。
近衛首相から、このような言葉を聞こうとは、企画院調査官・池田純久大佐は思っていなかった。そこで、次の様に答えた。
「とんでもない。梅津将軍はそんな政治的陰謀のできる人ではありません。そんな陰謀は将軍の最も嫌いなことです」。