陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

426.乃木希典陸軍大将(6)乃木希典は少年の頃、文学で身を立てようと志していた

2014年05月23日 | 乃木希典陸軍大将
 連隊長としての乃木希典は、軍人としての修養を欠かさなかったが、同時に学者の如く、向学心が強く、多肢に渡る勉学を修めている。

 「乃木希典」(戸川幸夫・人物往来社)によると、乃木希典が平素勉学、研究していたのは、主に和漢の書籍だった。軍人だから兵学に関するものが多かったが、武士道に関するもの、国体に関するものも非常に多かった。

 そのほか、歴史、文学、教育、神道に関するものもあり、広きにわたっていた。山鹿素行や吉田松陰の著書はいうまでもなく、そのほか、水戸学の著書も非常に研究していた。

 栗山潜鋒(くりやま・せんぼう・水戸藩士・江戸中期の朱子学者)の「保建大記」や、藤田東湖(ふじた・とうこ・水戸藩士・水戸学藤田派の学者)の「弘道館記述義」などは前々から研究していた。

 三宅観瀾(みやけ・かんらん・栗山潜鋒の推挙で水戸藩に仕える・江戸時代中期の儒学者)の「中興鑑言」という書物は栗山潜鋒の「保建大記」と並んで水戸の国体に関する著書として重要なものだった。

 このことを人づてに聞いた乃木は、手を回して、その本を借り、全文を模写して。それを石版刷りにして、数十部つくり、友人や部下に贈った。

 乃木は昔の本で、手に入らない良い本があった場合は、私費を投じて複製をし、多くの人に分け与えている。吉田松陰の「武教講録」や「孫子評註」であるとか、山鹿素行の「武教本論」や「中朝事実」など、その数は十数種類にのぼっている。

 また、乃木希典は少年の頃、文学で身を立てようと志していただけあって、乃木の文才は一流であった。風刺諧謔の筆致は絶品だった。特に乃木の漢詩は優れており、名作として後世に長く伝えられているものも多い。

 明治九年七月のある日曜日、乃木は所用で熊本鎮台に行ったとき、水前寺に遊びに行った。行きつけの万八楼という料亭で一杯やっていた。

 隣の料亭に京町の芸者が三人遊びに来ており、やがて、素っ裸になって庭の泉水に入って水浴し始めた。乃木は二階の手すりに身を寄せて盃を片手にこの様子を見ていた。

 泉水の水は彼女たちの玉の肌を洗って、その股の間をくぐって、万八楼の方へ流れてきた。乃木はすぐに筆をとって、次のような一詩を作った。

 「水前寺辺登水楼 清流縁掛午風涼 泉源何処美人浴 定洗鬱金水有香」。

 この漢詩の意味は次のようなものである。

 「水前寺辺りの料亭に登ったら、清い流れがあり緑の木も茂り昼の風も涼しかった、流れ来る泉の源はどこかと眺めたら美人が水浴をしていた、そこから流れてくる水は定めし鬱金を洗ってきたので香ばしいにおいがするだろう」。鬱金(ウコン)は例えだが、健康食品などにあり、芳香良いにおいがある植物。

 明治九年十月二十七日、秋月党による秋月の乱(福岡県)が勃発。乃木少佐は連隊を率いて、秋月党を攻撃、十月三十一日には反乱軍を撃退し、叛乱は鎮圧された。

 明治九年十月二十八日萩の乱が起こり、新政府に不満を持つ前原一誠が挙兵した。前原一誠は、高杉晋作や久坂玄瑞と並んで三羽がらすと言われた逸材だった。明治になってからは、大村益次郎のあとを受けて兵部大輔(後の陸軍大臣)にも任命された。

 だが、前原一誠の性格は正直で一本気だったので、どうしても政治家肌の木戸孝允や大久保利通とウマが合わなかった。

 それで、西郷隆盛に近づき、対外強硬論を唱えていた。だが、やがて、山県有朋に追われるようにして中央を去り山口県の萩に帰郷した。

 萩における前原一誠の人気はたいしたものだった。長州の若い武士たちは前原一誠が中央から追われたことにひどく憤慨し、前原一誠と生死を共にしようとした。乃木希典の実弟、玉木正諠(たまき・まさよし)も、前原一誠の信奉者だった。

 前原一誠は、玉木正諠の兄の乃木希典少佐が小倉の連隊長心得であって、兵器が自由になることから、乃木少佐を味方にすれば戦力が増大するし、乃木少佐が味方をしたというだけで 幾千騎の味方を得たにも優り、各地の不平党も一斉に挙兵すると見込んでいた。

 もし、乃木少佐が挙兵に加わらなくても、連隊の兵器を横流ししてもらうだけでもよいと考えていた。そこで乃木少佐の弟、玉木正諠を使者として何回も送った。