山本大佐の言葉に、袁世凱はうなずき、次の様に言った。
「まさしくお言葉の通りです。また各国の商人が京城に在って朝鮮商人とともに競争し、互いに通商の道を発達させることは、朝鮮商人の不利ではなく、間接的な利益になることが夥(おびただ)しくあります」
「たとえ居留商人をことごとく城外に移転させても、朝鮮商人はこのために少しも利益は得られず、ただ冗費を支出させられる(立退料の負担も含む)に過ぎません」。
これに対して、山本大佐は次のように述べた。
「今年中に我が国は、また二、三艘の新艦を得ることになりましょう。願わくは、数年を出ないうちに貴国の艦隊と連合し、一大連合艦隊を組成して、太平洋に運動を試みるように至らせたいものです」。
袁世凱も、次の様に応じた。
「私もそれを期待して待ちます。もし我々が将来そのようにできれば、他の国の軍艦をシンガポールの関門から東に入らせるものではありません」。
山本大佐は椅子から離れ、別れの言葉を述べた。
「あなたの御病気を冒し、強いて面接を申し入れ、はなはだ失礼しました。しかし、あなたが面接を許して下さり、旧交を温め、一層の友好を加えることができました」。
これに対し、袁世凱は次のように答えた。
「遠くまで来訪を辱(かたじ)けなくし、またご高説をいただき、幸甚というほかありません。私もいつかあなたの艦に乗せていただくことがありましょう。これからもしばしば尋ね合い、交際を厚くし、なお一層の親睦を保つことを望みます」。
会談はこうして終わった。日本公使館に帰った山本大佐は、会談の内容を近藤公使に詳しく説明し、次の様に意見を述べた。
「朝鮮政府は、一定の方針がなく、内外の政事全て一時の姑息に出て、確たる信用を措くことはできない。撤桟事件は、今日の情勢から推測すれば、再び騒擾(そうじょう)を生じる(一時全韓国商店のストライキが起こり、嫌悪な空気が広がった)ことはないであろう」
「袁世凱は朝鮮政府の独立を計ろうとしているのか、朝鮮政府を属国視してその独立を希望しないのか、真意は不明だが、彼が朝鮮政府の外務督弁(外務大臣)などに接する様子を見ると、あたかも臣僕(家来としもべ)を見るようである。これに自分は大きな疑念を抱いている」
「もし事変が発生したら、なるべく兵力に頼らずに防衛鎮圧うることを図り、朝鮮政府、各国公使と十分協議し、日本の既定方針に従って目的を達成するよう処置すべきである」。
山本大佐の見解に、近藤公使も全面的に賛成した。
その夜、近藤公使が、山本大佐以下のため、夜会を催してくれた。その夜会で、山本大佐は、近藤公使から別室に引き込まれた。近藤公使は、次の様に言った。
「大院君が、『現政府の要人五人を殺し、甲申の変で日本に亡命した独立党の金玉均・朴泳孝を政府に入れ、自分が政治を行えば、弊政は変革される。手を貸してくれないか』と言っているのだよ」。
これに対して、山本大佐は、明解に次の様に返答した。
「それは我々を籠絡(ろうらく=手なずけて思い通りに操る)し、彼らの陰謀(閔派を潰滅させて大院君が政治の実権を握る)にあずからしめ、その結果、我々にその責任をかぶせようというものでしょう。軽々しく応ずべきではありません」
「朝鮮政府も大院君側も、くるくる変わり、当てになりません。日本政府を代表してこの局面に当たる者は、一定の方針を確定して、どのような事変に遭遇しても、断然その方針を貫くべきです」。
任務を終えた山本大佐は、仁川の巡洋艦「高雄」(一七七四トン・乗組員二二〇名)に戻って、帰途に着いた。巡洋艦「高雄」は、明治二十三年三月十日、品川沖に帰着した。
帰国した山本権兵衛大佐は直ちに海軍省に出頭し、西郷従道海相に口頭で復命し、文書も提出した。
その中で、特に、「警備艦の増強が急務である。多数の警備艦を韓国の沿岸に配置し、韓国に異常事態が発生した場合、即座に東京に連絡が取れるようにするのが必要だ」と強調した。
「まさしくお言葉の通りです。また各国の商人が京城に在って朝鮮商人とともに競争し、互いに通商の道を発達させることは、朝鮮商人の不利ではなく、間接的な利益になることが夥(おびただ)しくあります」
「たとえ居留商人をことごとく城外に移転させても、朝鮮商人はこのために少しも利益は得られず、ただ冗費を支出させられる(立退料の負担も含む)に過ぎません」。
これに対して、山本大佐は次のように述べた。
「今年中に我が国は、また二、三艘の新艦を得ることになりましょう。願わくは、数年を出ないうちに貴国の艦隊と連合し、一大連合艦隊を組成して、太平洋に運動を試みるように至らせたいものです」。
袁世凱も、次の様に応じた。
「私もそれを期待して待ちます。もし我々が将来そのようにできれば、他の国の軍艦をシンガポールの関門から東に入らせるものではありません」。
山本大佐は椅子から離れ、別れの言葉を述べた。
「あなたの御病気を冒し、強いて面接を申し入れ、はなはだ失礼しました。しかし、あなたが面接を許して下さり、旧交を温め、一層の友好を加えることができました」。
これに対し、袁世凱は次のように答えた。
「遠くまで来訪を辱(かたじ)けなくし、またご高説をいただき、幸甚というほかありません。私もいつかあなたの艦に乗せていただくことがありましょう。これからもしばしば尋ね合い、交際を厚くし、なお一層の親睦を保つことを望みます」。
会談はこうして終わった。日本公使館に帰った山本大佐は、会談の内容を近藤公使に詳しく説明し、次の様に意見を述べた。
「朝鮮政府は、一定の方針がなく、内外の政事全て一時の姑息に出て、確たる信用を措くことはできない。撤桟事件は、今日の情勢から推測すれば、再び騒擾(そうじょう)を生じる(一時全韓国商店のストライキが起こり、嫌悪な空気が広がった)ことはないであろう」
「袁世凱は朝鮮政府の独立を計ろうとしているのか、朝鮮政府を属国視してその独立を希望しないのか、真意は不明だが、彼が朝鮮政府の外務督弁(外務大臣)などに接する様子を見ると、あたかも臣僕(家来としもべ)を見るようである。これに自分は大きな疑念を抱いている」
「もし事変が発生したら、なるべく兵力に頼らずに防衛鎮圧うることを図り、朝鮮政府、各国公使と十分協議し、日本の既定方針に従って目的を達成するよう処置すべきである」。
山本大佐の見解に、近藤公使も全面的に賛成した。
その夜、近藤公使が、山本大佐以下のため、夜会を催してくれた。その夜会で、山本大佐は、近藤公使から別室に引き込まれた。近藤公使は、次の様に言った。
「大院君が、『現政府の要人五人を殺し、甲申の変で日本に亡命した独立党の金玉均・朴泳孝を政府に入れ、自分が政治を行えば、弊政は変革される。手を貸してくれないか』と言っているのだよ」。
これに対して、山本大佐は、明解に次の様に返答した。
「それは我々を籠絡(ろうらく=手なずけて思い通りに操る)し、彼らの陰謀(閔派を潰滅させて大院君が政治の実権を握る)にあずからしめ、その結果、我々にその責任をかぶせようというものでしょう。軽々しく応ずべきではありません」
「朝鮮政府も大院君側も、くるくる変わり、当てになりません。日本政府を代表してこの局面に当たる者は、一定の方針を確定して、どのような事変に遭遇しても、断然その方針を貫くべきです」。
任務を終えた山本大佐は、仁川の巡洋艦「高雄」(一七七四トン・乗組員二二〇名)に戻って、帰途に着いた。巡洋艦「高雄」は、明治二十三年三月十日、品川沖に帰着した。
帰国した山本権兵衛大佐は直ちに海軍省に出頭し、西郷従道海相に口頭で復命し、文書も提出した。
その中で、特に、「警備艦の増強が急務である。多数の警備艦を韓国の沿岸に配置し、韓国に異常事態が発生した場合、即座に東京に連絡が取れるようにするのが必要だ」と強調した。