鎌次郎が駆け戻って来た。「とても喜んでおりました」。「うむ」。ふたりはぽつぽつ歩き出した。「閣下、いい功徳をなさいました。年を聞いてみましたら、やっと十になったばかりでそうで。粗末な身なりですが、可愛い顔をした女の子で……。ぽろぽろ涙を流しておりました」。乃木大将は無言だった。
その後のある日曜日、乃木大将は旧友の摺沢静夫中将の家に行った。摺沢中将は、西南戦争当時からの乃木大将の部下で、その後の日清、日露の役にも副官として従った軍人である。
戦争中の回顧談でつい時間を忘れ、日が暮れかかって、乃木大将はようやく帰宅することになった。乃木大将は、摺沢邸の人力車も断って、歩いて麹町平河町の邸をでた。
薄暮の赤坂見附を左に折れた時、「おじいさん」と、不意に呼ばれた。振り返って見ると、小さな女の子が、薬瓶を持って立っていた。
「この間は、どうもありがとう」。こっくり頭を下げて、年の割にしっかりした物の言い方である。くりっとした瞳に見覚えがあった。
「ほう、辻占売りの……」。乃木大将はにっこり微笑むと、皺の多い掌を女の子のお下げの髪においた。「どこへ行くのかね?」。「今、お医者さんからの帰りなの」。「誰か、病気なのか」。「うん、おばあちゃんが寝ているの」。「そうか、ではお父さんやお母さんは……」。「死んじゃったの」。
二人は歩き出した。黄昏の光に見る少女は、つぎの当たった粗末な袷であるが、洗濯のきいた小ざっぱりしたなりをしていた。
「家は、どこかね?」。「中ノ町の郵便局の裏。おじいさんの家はどこ?」。「新坂町だよ」。「あたい妙(たえ)と言うの。おじいさんは何て名前?」。「希典と言うんだよ」。「おじいさん、お金持ちなので」。
乃木大将は、目を細めて、少女の手を引き、上機嫌だった。すると、妙が言った。「おじいさん、新坂町にこわい人がいるの、知ってる?」。「こわい人?」。「うん、隣の熊おじさんが、言っていた、こわい人」。
「知らないなあ、どんな人だね?」。「そう、うちのお父さんを殺した人だって」。乃木大将は驚いて、足を止めた。「お父さんを殺した人……?」
「そうなの、うちのお父さんばかりじゃない、日本中のたくさんの人を殺したんだって……。ロシアの弾がうんと飛んでくる所へ、皆を無理に行かしたのよ」。
乃木大将の顔色が、急に変わった。「お父さんは兵隊だったのかね?」。「うん」。「お母さんは?いつ」。「あたいが赤ん坊の時に死んだのよ」。「病気のおばあさんと二人きりなのだね。それで、夜、辻占売りにでているんだね」。
急に語気の変わった乃木大将に、妙は不安そうに乃木大将を見上げた。「妙、さんと言ったね。おじいさんが一緒に家まで行こう」。「どうして?」。「おばあさんを見舞いに行こうと思ってな」。
じめじめした長屋の狭い路地の奥に、妙の家があった。暗い土間を一歩入ると、妙が、「おばあちゃん、お薬買ってきたよ。それから、お客さんよ。おばあちゃんをお見舞いに来るんだって」。
障子の奥で、太い男の声がした。「お帰り、お妙坊。誰だいお客さんてエのは」。出てきたのは四十過ぎの法被腹掛け姿の鉢巻をした男だった。「あら、熊おじさん、来てたの?」。「うん」と答えながら熊吉は、妙の後ろに立つ老人に、軽く頭を下げて、「どちらさんでござんしょう?」。
すると妙が「この間の晩、たくさんお金をくれた人よ」。目を丸くした熊吉は「鉢巻を取るより早く、その場に座って、「こりゃどうも、先だっては大枚のお金をいただきやんして、ありがとうござんす」。
妙が「隣の熊おじさんよ」と乃木大将に紹介した。熊吉は「むさくるしい所でござんすが、どうそ、お上がりなすって下さいまし、病人も大変喜んで、一度お目にかかってお礼が言いたいと…」。
乃木大将が上がってみると、わずか一間きりの六畳に、裸電灯がわびしい光を投げていた。老婆があわてて煎餅布団の上に起き上がり「わざわざありがとうございます」と憔悴した身体を平伏した。
乃木大将は、「いや」と答えたのみだった。何とも言いようがなかったのだ。このひどい暮らしを見ては、慰めの言葉も却って、空々しい位だった。
「先日は妙が大そうなお金を頂きまして……」。だが、乃木大将の目は位牌に向けられたままだった。熊吉がその様子に気づき「ありゃね、お妙坊の父親でしてね。旅順の戦争で死んだんでさ。二〇三高地とかの攻撃で決死隊に入って、ロシアに射たれたそうで……」。
乃木大将は感慨深げにうなずきながら、「名誉のご戦死ですな」と、つぶやくように言ったが、熊吉が急に「名誉かなんか知らねえが、この家にとっちゃ大変な迷惑でさ」。
熊吉は、腹が立ってどうにも仕方がないと言わんばかりに、鼻の穴をふくらませて言った。「死んだ甚太郎はあっしの幼友達だ。いい腕の大工だったが、酒を飲むでもなし、博奕を打つでもねえのに、長屋住まいから足を洗えなかった野郎だ。だがね、たとえ裕福な暮らしでなかったにしろ、親子四人、結構笑ってやっていたんだ。このお妙坊だってそれ相応の支度をやって貰っていたんだ。それが、あのろくでもねえ戦に狩り出されたために……」。
その後のある日曜日、乃木大将は旧友の摺沢静夫中将の家に行った。摺沢中将は、西南戦争当時からの乃木大将の部下で、その後の日清、日露の役にも副官として従った軍人である。
戦争中の回顧談でつい時間を忘れ、日が暮れかかって、乃木大将はようやく帰宅することになった。乃木大将は、摺沢邸の人力車も断って、歩いて麹町平河町の邸をでた。
薄暮の赤坂見附を左に折れた時、「おじいさん」と、不意に呼ばれた。振り返って見ると、小さな女の子が、薬瓶を持って立っていた。
「この間は、どうもありがとう」。こっくり頭を下げて、年の割にしっかりした物の言い方である。くりっとした瞳に見覚えがあった。
「ほう、辻占売りの……」。乃木大将はにっこり微笑むと、皺の多い掌を女の子のお下げの髪においた。「どこへ行くのかね?」。「今、お医者さんからの帰りなの」。「誰か、病気なのか」。「うん、おばあちゃんが寝ているの」。「そうか、ではお父さんやお母さんは……」。「死んじゃったの」。
二人は歩き出した。黄昏の光に見る少女は、つぎの当たった粗末な袷であるが、洗濯のきいた小ざっぱりしたなりをしていた。
「家は、どこかね?」。「中ノ町の郵便局の裏。おじいさんの家はどこ?」。「新坂町だよ」。「あたい妙(たえ)と言うの。おじいさんは何て名前?」。「希典と言うんだよ」。「おじいさん、お金持ちなので」。
乃木大将は、目を細めて、少女の手を引き、上機嫌だった。すると、妙が言った。「おじいさん、新坂町にこわい人がいるの、知ってる?」。「こわい人?」。「うん、隣の熊おじさんが、言っていた、こわい人」。
「知らないなあ、どんな人だね?」。「そう、うちのお父さんを殺した人だって」。乃木大将は驚いて、足を止めた。「お父さんを殺した人……?」
「そうなの、うちのお父さんばかりじゃない、日本中のたくさんの人を殺したんだって……。ロシアの弾がうんと飛んでくる所へ、皆を無理に行かしたのよ」。
乃木大将の顔色が、急に変わった。「お父さんは兵隊だったのかね?」。「うん」。「お母さんは?いつ」。「あたいが赤ん坊の時に死んだのよ」。「病気のおばあさんと二人きりなのだね。それで、夜、辻占売りにでているんだね」。
急に語気の変わった乃木大将に、妙は不安そうに乃木大将を見上げた。「妙、さんと言ったね。おじいさんが一緒に家まで行こう」。「どうして?」。「おばあさんを見舞いに行こうと思ってな」。
じめじめした長屋の狭い路地の奥に、妙の家があった。暗い土間を一歩入ると、妙が、「おばあちゃん、お薬買ってきたよ。それから、お客さんよ。おばあちゃんをお見舞いに来るんだって」。
障子の奥で、太い男の声がした。「お帰り、お妙坊。誰だいお客さんてエのは」。出てきたのは四十過ぎの法被腹掛け姿の鉢巻をした男だった。「あら、熊おじさん、来てたの?」。「うん」と答えながら熊吉は、妙の後ろに立つ老人に、軽く頭を下げて、「どちらさんでござんしょう?」。
すると妙が「この間の晩、たくさんお金をくれた人よ」。目を丸くした熊吉は「鉢巻を取るより早く、その場に座って、「こりゃどうも、先だっては大枚のお金をいただきやんして、ありがとうござんす」。
妙が「隣の熊おじさんよ」と乃木大将に紹介した。熊吉は「むさくるしい所でござんすが、どうそ、お上がりなすって下さいまし、病人も大変喜んで、一度お目にかかってお礼が言いたいと…」。
乃木大将が上がってみると、わずか一間きりの六畳に、裸電灯がわびしい光を投げていた。老婆があわてて煎餅布団の上に起き上がり「わざわざありがとうございます」と憔悴した身体を平伏した。
乃木大将は、「いや」と答えたのみだった。何とも言いようがなかったのだ。このひどい暮らしを見ては、慰めの言葉も却って、空々しい位だった。
「先日は妙が大そうなお金を頂きまして……」。だが、乃木大将の目は位牌に向けられたままだった。熊吉がその様子に気づき「ありゃね、お妙坊の父親でしてね。旅順の戦争で死んだんでさ。二〇三高地とかの攻撃で決死隊に入って、ロシアに射たれたそうで……」。
乃木大将は感慨深げにうなずきながら、「名誉のご戦死ですな」と、つぶやくように言ったが、熊吉が急に「名誉かなんか知らねえが、この家にとっちゃ大変な迷惑でさ」。
熊吉は、腹が立ってどうにも仕方がないと言わんばかりに、鼻の穴をふくらませて言った。「死んだ甚太郎はあっしの幼友達だ。いい腕の大工だったが、酒を飲むでもなし、博奕を打つでもねえのに、長屋住まいから足を洗えなかった野郎だ。だがね、たとえ裕福な暮らしでなかったにしろ、親子四人、結構笑ってやっていたんだ。このお妙坊だってそれ相応の支度をやって貰っていたんだ。それが、あのろくでもねえ戦に狩り出されたために……」。