■我ら地元自治体である安中市が全国に“誇る”タゴ51億円巨額詐欺横領事件で、単独犯とされた安中市土地開発公社元職員・タゴが15年間という長期同一職場配置により、巨額詐欺横領を働いた事実が、市役所内でとうとう明るみに出た日から、今日で21年目となります。先月4月8日には、タゴの刑事裁判の判決が下りてから20年目の節目が到来し、同4月22日には、タゴの刑事罰が確定してから20年が経過したため、この事件の関係者の刑事罰や民事罰が“目出度く”公訴時効となりました。今や、タゴ事件で、元職員・タゴの周りでさまざまな役割を果たしていた事件関係者らは晴れて、完全に枕を高くして寝ることが出来るようになったのです。
※今から6年前の当会ブログ記事を参照ください。
○2010年5月21日:タゴ51億円事件発覚から15周年・・・事件発覚当時の様子を振り返る↓
http://pink.ap.teacup.com/ogawaken/464.html
タゴ事件の経緯を振り返りますと、1995年5月18日に安中市土地開発公社のあった都市計画課で、群馬銀行との間に、公社の帳簿には載っていない巨額の債務の存在に気づき、そのことを確かめるために、群馬銀行に公社の残高を問い合わせて発覚しました。安中市公社の新人職員が同5月17日に不審に思って群馬銀行に連絡を取ろうとしましたが、すでに夕方だったので、その日は確認できず、翌18日に群馬銀行からの確認結果を知って、簿外債務の存在を認識したのでした。だから、5月18日がタゴ事件の発覚記念日なのです。
その後、市・公社と群銀がそれぞれ内部調査を進めた結果、安中市の場合タゴの犯行額が当初は30億円台だったものが、40億円、50億円とみるみるうちに積み上がり、このままでは事件の真相を市民に知られたら大変なことになるとして、市役所の事件関係者の間では箝口令が敷かれ、市民に知らせる前に重大な証拠書類は全て処分することにしたのでした。
しかし、全部捨てるわけにもいかない為、熟考を重ねた結果、タゴが安中市土地開発公社特別会計口座と呼ばれる裏口座を開設した平成2年4月以前の資料を、処分することにしたのでした。そのため、夜間、公社のあった西庁舎2階から、重要文書の束を下に配置したトラックの荷台に投げおろし、そのまま市のごみ焼却施設に運び去り、燃やして証拠隠滅を図ったのでした。
つまり、平成2年4月の裏口座開設以前は表の正式口座からカネをネコババしていたわけで、当然、タゴのみならず、他の上司や同僚も知っていたことになるわけです。
■平成2年4月に、経理の判る上司という触れ込みで、高橋弘安が公社の次長として赴任してきました。タゴは「上司に経理の専門家が来るので、発覚を恐れて裏口座を作った」と警察に供述していますが、実際には新上司の高橋次長の指示で、裏口座を作った可能性が高いと思われます。なぜなら、高橋次長は、通帳のチェックなど全く不熱心で、自ら融資の際に、金融機関に赴くことはせず、相変わらずタゴを群馬銀行にひとりで行かせていたからです。
警察の捜査結果でも、平成2年4月15日までに業務上横領金として、第1期(昭和57年頃~昭和60年3月30日で6150万円、第2基(昭和60年3月30日~平成2年4月15日)で8756万円、合計1億4906万円が計上されています。
※参考:「安中市民通信まど(平成18年4月13日付第124号・号外)」↓
http://newmatsuida.web.fc2.com/madom.html
■この高橋弘安・事務局次長(事件発覚当時)は、警察も当初からマークして事情聴取をしましたが、事件発覚後、平成7年6月7日にタゴが逮捕され、事件関係者からの事情聴取が早速始まりました。
高橋次長自身も何度か事情聴取を受けて、当初は神妙に受け答えをしていましたが、同年8月くらいになると、次第に余裕綽々の態度に変わってきました。
この背景には、当時市議から県議に転じたばかりで、タゴとは公社時代、議員として監事を務めていた岡田義弘・前市長の尽力があったことが分かっています。この人物は、公社が設立されて間もない昭和56年度の監事として、決算報告書に監査結果は正しいとお墨付きを与えましたが、実際には前年度からの繰り越し500万円があるはずなのに、ゼロとしてある決算報告に押印をしてしまいました。
岡田・前市長の尽力により塀の向こうに落ちなかった市役所の職員らは今でも「岡田さんには足を向けて寝られない」と思っていることでしょう。
高崎高校の通信制を自称「中退」した岡田・県議(事件発覚当時)としては、当時は決算報告書の見方が分からなかったという見方も一部にはありますが、岡田・市議は、タゴが公社設立のために異動する前に、タゴが農政課に在籍した当時からコンタクトが始まっていたと見られます。
タゴが公社に長期間配置されたいた結果、さまざまな事件関係者がタゴのまわりに巣食って、その利権にありつこうとうごめいていました。その様子は、平成7年6月の事件公表直後に岡田義弘の自宅の隣の民家の土蔵の壁に針金でつるされていた怪文書に端的に記されていました。当会では、事件直後に寄せられた内部告発情報や刑事確定記録などから、この怪文書に記されている情報のうち、間違いだと断定できるものは一つも持ち合わせていません。
※参考:怪文書「安中をおおう黒い霧ゆるさん!」↓
http://pink.ap.teacup.com/ogawaken/img/1248098176.jpg
■タゴの取り巻きとしては、前述の高橋次長が最も近い存在で、政治関係者としては昨年物故した広上輝男・市議会議長(事件発覚当時)をはじめ、同じ会派だった早川正雄、澤博、伊藤成、柳沢健一の名前が取りざたされ、タゴが平成6年10月から12月まで東京の広尾にある自治大学校に研修に派遣されたとき、激励と称して、酒を飲めないタゴを横目に赤坂でドンチャン騒ぎをしたことなどが、市民の間で話題となっていました。
彼らはいずれも、タゴの持っている安中市内の不動産情報が目当てでしたが、なかでも、最も積極的だったのは早川市議(事件発覚当時)でした。彼はタゴの息子が通った学習塾「適塾」の創立者として、また実業家としてタゴの持つ不動産情報に目をつけ、友人らと一緒に㈱芙蓉という会社を立ち上げたほどです。その友人・知人の中にタゴの実弟の多胡茂美(昨年2015年6月下旬物故)がおり、当時、運送業を始めたばかりでした。
平成3年から、事件の発覚する平成7年5月までは、彼らのネットワークは非常に効率的に機能していました。タゴが県の企業局の下請として、西毛広域幹線道路が信越線と交差する位置に計画された安中中央駅(仮称)と、その周辺に大規模な県営住宅開発に向けて着々と計画を進めていたとき、事件が発覚してしまい、全てがストップしてしまったのでした。但し西毛広域幹線道路計画はその後、他の市町村では少しずつ進捗し、ようやく安中市内でも最近になって実現に向けた動きが見られるようになりました。当時、沿線の土地を買いあさった議員やその関係者も、これまで塩漬けだった土地がようやく脚光を焙るのでほっとしているところでしょう。
■重要参考人と目された高橋次長(事件発覚当時)が、余裕のある発言をするようになった背景には、当時県会議員になったばかりの岡田・前市長の功績があります。いまでも、高橋次長は岡田・前市長に頭が上がらないはずです。
ではなぜ、岡田・前市長がそのような政治力を発揮できたのでしょうか。それは彼が自民党の中曽根派に所属していたからです。動揺に、当時同じ会派の議長だった広上輝男もバリバリの中曽根派でした。早川正雄も同様です。こうした政治的な背景から、司直も、天の声には逆らえなかったものとみられます。
事件が発覚した平成7年5月18日から6月3日の上毛新聞の事件記事の掲載にいたる半月間で、タゴは岡田義弘の自宅に少なくとも3回出入りしたことが目撃されています。また、タゴやタゴの配偶者が高崎市八千代町にある田中善信弁護士に相談し柳川町にある中曽根系の弁護士として知られる穂積始を紹介されたりしたことも、政治関係者からのアドバイスを感じさせます。
■一方、横領した公金でタゴが大量の骨董品を購入したことが、事件直後から報道されましたが、実際にそれらの骨董品を販売した栃木県足利市の一品堂の店主の小貫達の話では、実際にはタゴにはひとつも直に販売しておらず、すべてタゴの友人で当時、甘楽信用金庫の安中支店に勤務していた石原保が一手に購入していました。小貫達は、この事実は警察から決して他言してはならない、と釘を刺されたと証言しており、その信用度はともかく、古物商の免許を持たなかったタゴにとって、金融マンでありながら古物商の免許を持つ石原保の存在は、莫大な横領金の使途を曖昧にするための方策としての骨董品購入には、大変重宝したものと思われます。
また、警察が、横領した公金で購入された骨董品は100%捕捉して確認した、と豪語したにもかかわらず、実際には、タゴが警察に逮捕される直前に、絵画等6点を、無二の親友である石原保(平成7年5月31日付で甘楽信用金庫を自主退職)に隠し持つよう、保管を依頼していました。
一品堂の小貫達も、タゴとの直接売買には一切関与していなかったということから、大量の骨董品を収めたタゴ自慢の総桐の内装の骨董倉庫でのひとつひとつの骨董品のチェック作業に、警察から立会協力を求められていました。一方で、タゴが目ぼしい絵画等6点をこっそり隠して石原保に保管を依頼していたわけですから、警察もなめられたものです。
■外形的には被害者を装う地元の有力な金融機関である群馬銀行も、タゴの存在には一目置いていました。それもそのはず、バックに中曽根系の政治家がいることや、市長のお気に入りであることを熟知しており、タゴのご機嫌を取ることは群銀として営業的に重要だと認識していました。
そのため、タゴのデタラメな公的融資案件情報を聞き出そうと、盆暮れには高級ワインセットなど贈答品を欠かさず贈ったりして、躍起になってタゴの機嫌を取っていました。シングルプレーヤーだったタゴに、ベルエアや白水ゴルフの会員権購入に際して、群銀子会社のクレジット会社の融資サービスを紹介してやったり、安中支店に勤務中になかよくなった群銀職員の結婚式にタゴが招待されるほど、群銀側はタゴのご機嫌をとるようになっていたのでした。
群馬銀行側では、捜査関係者の間でターゲットとして目されていたのは、群銀の安中支店長をしていた松井誠でした。タゴがいつも、公社の特別会計口座から預金を1000万円単位で現金で下す手続きをする間、窓口で安中支店の行員が支払業務をやっている間、いつもタゴを支店長室の応接セットに案内をして、親密に談笑していた松井支店長ですが、なぜ、口座振り込み手続きをせずに、いつも「小川市長の特命だ」というタゴの言葉に沿って、多額の現金を渡していたことに、少しも疑問を持たなかったというのは、さすがに捜査関係者も不自然さを感じたのでした。
しかし、こうした不自然さも、結局政治力でそれ以上の追及はなされずに、群馬銀行としても、逮捕者を出さずに済むことで、胸をなでおろしたに違いありません。
■このほかにも、蚕糸高校でタゴと同級だった市役所職員が、高崎競馬でしょっちゅうギャンブルに興じたりして、タゴいわく「総額1億円ものカネをつぎ込んだ」というほどギャンブル好きなタゴにつきあった市役所職員のうち少なくとも3名が事情聴取を受けています。彼らは、タゴから金品をもらっていることを供述していますが、なぜか身体出所には全く影響なく定年まで勤めあげたのでした。
なお、事件発覚当時まで、タゴと一緒に机を並べていた都市整備課職員を刑務していた公社職員だった両「竹」コンビの竹内克美と竹田清孝も、今年の4月1日付で、それぞれ産業部長→松井田支所長と、碓氷病院事務部総務課参事→企画課参事に異動し、二人とも間もなく定年退職を迎える年齢です。
となると、市役所にはタゴ事件に直接的に関係した職員がまもなく皆無となってしまうことになります。それでも、あと87年間、毎年群馬銀行にタゴの豪遊の尻拭いの和解金2000万円ずつ支払い続けるのでしょうか。
新しい女性市長が、そうした負の連鎖を断ち切るかと思いきや、やはり、裁判で決まったことだから、という理由かどうかは不明ですが、群馬銀行に対して、和解条項の解消について協議する動きは皆無のようです。
それもそのはず、土地開発公社の理事長には、群馬県の農政部長をしていた茂木一義を据えてしまい、当会からタゴ事件の情報開示請求を安中市長あてに題しても、実施機関は公社ということで、書面で「市民から情報開示請求があったので検討してほしい」と問い合わせるだけの、まだるっこい対応しかしてくれません。
■それではなぜ、全国に数多くある地方自治体の中で、これほどまでに巨額な公金詐欺横領事件の発生を安中市は許してしまったのでしょうか。このことは、事件発覚からずっと安中市民にとって解析すべき命題だったのです。
事件発覚から21年を振り返り、当会のこの件に関する見解は次のとおりです。
①タゴを公社設立時から15年間ずっと長期配置していたことは、ほかにもっとましな人材が見当たらなかった状況を意味している。
②タゴは51億円時間発覚前にも、母子家庭を装って市営住宅に住むなど、行政の定めたルールを自ら守っていなかったが、その行状を見咎めて注意する同僚や上司が皆無だった。このことは、役所内で不正を見つけたら告発しなければならないという公務員の義務を全く知らない人物ばかりがはびこっていたことを意味している。
③こうした現象は職場の閉塞感に起因するものと考えられる。その背景には、1971年11月の安中市長選挙に出馬し当選した市長の湯浅正次(ゆあさ・しょうじ)が5期20年間にわたって安中市政を司っていましたが、この期間中に市政が停滞してしまい、職員の意識や職場環境が淀み切ってしまったことがあります。1991年11月に湯浅正次のあと、市長の座を継いだ小川勝寿(おがわ・しょうじ)も、行政手腕はゼロで、湯浅正次の席をそのまま温めていたにすぎなかった。そのため、合計25年もの長期間に亘って、市役所は鎖国状態だったため、タゴ事件が発生した1995年5月は、既に腐臭を放っていた状態にあったことを意味している。
④こうした職員の公務員意識の欠如は、縁故採用が市役所に蔓延っていたことも主な原因の一つだとみる向きがある。それによれば、タゴ事件発覚当時、縁故採用を希望する者は、採用枠の権限を持つ人物に対して150万円を支払うという不文律があったという。この悪しき慣習は、驚くべきことにタゴ事件発覚後も継続され、中島博範市長や岡田義弘市長の時代になっても引き継がれていたという。中島市長時代は、それまでどおり、市長のほかにも部長クラスに1名ずつ採用枠があてがわれたため、市役所幹部の不満はあまり嵩じなかったが、岡田市長時代には市長が採用枠を独占した上に相場も250万円に跳ね上がったという。中島市長時代が3期続いたのに比べて、岡田市長時代が2期でストップしたのはこのためだという見方もある。こうした縁故採用が現在も続いないという保証は全くない。いずれにしても、タゴ事件発覚当時、夫婦で市職員という事例が多数あり驚いた記憶がある。また、どこかで見たような若手職員がいるので名前を聞くと、よく似た職員OBと同じ苗字ということが、少なくなかった。
⑤タゴ事件発覚から21年経過し、タゴ事件を知る世代が次第に高齢化しつつあることも事実。そうした中で、群馬銀行に対する和解金の支払いが続く一方で、安中市が、タゴ本人からの債務の徴収に熱意を見せていないことが大きな懸念材料だ。当会がタゴ事件のことについて安中市を相手取り住民監査請求や住民訴訟を提起すると、必ず安中市は「住民による勝手な推理と憶測に基づくものであり、証拠として採用できない」と反論してくるタゴ事件が発覚した直後は、しおらしい対応だった安中市も、時間の経過により、次第に役人の特権的な上から目線に変化してくる。したがって、タゴ51億円の再発防止には、住民による弛まない監視活動が永続的に必要であることを意味している。
■タゴ51億円事件の発覚から21年が経過しましたが、群銀への支払いはあと87年間続きかねません。安中市では市民団体によるさまざまな街おこしの努力がなされていますが、それに必要な経費がなかなか捻出できません。もし、元職員タゴの豪遊の尻拭いとして、共犯同然の群馬銀行に毎年2000万円もの公金をくれてやっている状況が解消すれば、合併10周年の記念事業ももっと充実したものになり、「古民家再生を地域の力に」することもできるのです。
※安中市合併10周年記念・年間イベントカレンダー↓
http://www.city.annaka.gunma.jp/gyousei/soumu/kikaku/files/10syuunennibenntokarennda-.pdf
※「~古民家再生を地域の力に~」↓
http://miraijuku-annaka.blogspot.jp/2016_02_01_archive.html
http://miraijuku-annaka.blogspot.jp/2016_05_01_archive.html
当会は、タゴ51億円事件発覚直後に、事件の真相究明・責任所在の明確化・再発防止策の提案と実現を目指して、安中市内で唯一活動をした市民団体であることを肝に銘じています。今後87年間継続しかねない群馬銀行への和解金支払いの早期解消と事件の真相解明による再発防止策の具現化に向けて、できる限りの努力を傾注してゆく所存です。
【ひらく会事務局】
※参考1「タゴが懲戒免職になった1995年(平成7年)5月31日から警察に出頭した6月2日までの3日間の出来事」
**********
1)平成7年5月31日(水)12時30分頃、多胡邦夫から「家に居る。弁護士とアポイントがとれた」と電話で高橋弘安係長のところに連絡が入った。
2)午後3時30分になって、多胡邦夫が自宅にいることがわかり、午後3時すぎに高橋弘安と竹内清孝が多胡邦夫を自宅に迎えに行き、多胡邦夫を市役所の第一応接室に連れてきた。
3)小川勝寿市長や須藤助役、青木収人役、大塚総務部長、大工原建設部長、加部局長、高橋弘安が集まって多胡邦夫本人に事実確認した。そして、「確認書」を作って多胡邦夫に住所氏名を書かせて押印をさせた。
4)小川市長が5月31日付をもって懲戒免職の処分を口頭で言い渡した。この確認書をワープロで作る間に、小川市長は多胡邦夫に「警察に自首するように。警察に行く前にはこちらに連絡すること」と出頭を促した。多胡邦夫は「一日考えさせてください」と言った。
5)午後6時頃、安中支店長松井と次長清水が市役所に来たが、この時、小川市長は公社の高橋係長と共に対応した。
6)夜、公社監事の坂東非常勤特別職員のところに小川市長が職員を通じて、6月1日午前6時30分に市役所に第二委員会室で至急の会議を開く旨連絡が入った。
7)この日、多胡邦夫の妻は田中善信弁護士のところへ行った(午前中と考えられる)。そして、夕方にも多胡邦夫と妻(多胡春美)と多胡邦夫の弟(=多胡茂美)が田中弁護士に連れられて、穂積始弁護士を訪れた。
8)この時、穂積弁護士は「市長に全部報告し、その上で処分をうけてそれから自首した方がいい」と話した。多胡邦夫は弁護士に事件の内容を言うと、弁護士は「これは大変だ。市の方の市長さんに報告しろ」と話したが、後になって、この時の段階では、多胡邦夫からの弁護依頼でなく、多胡邦夫に「そうした方がいいよ」というものであったと解説している。
9)平成7年6月1日(木)、多胡邦夫が穂積弁護士のところを再び訪れ、弁護の依頼をした。多胡邦夫は「ぜひ自首をしたい」と弁護士に言ったところ、弁護士は「現金、骨董類は全部移動してはいけないよ」と多胡邦夫に言った。
10)午前9時30分から安中市役所で安中市土地開発公社緊急役員会が開かれた。この時、参加者は、多胡邦夫の不正について金額までは聞かされなかった。
11)午前10時30分から安中市議会全員協議会で事件が報告された。
12)午後2時頃、高崎市内の善如寺弁護士の事務所へ須藤助役、大工原建設部長、加部局長、高橋弘安係長、竹田清孝の5人で今後の事件対応を相談に行った。午後5時30分頃市役所に戻った。
13)午後7時前に多胡邦夫の妻から高橋弘安係長に「明日の午後1時半に穂積弁護士と一緒に警察に行きます」と連絡が入ったので、高橋弘安は市長にこの旨を伝えた。
14)平成7年 6月2日(金)午前、小川市長が警察へ告発の相談に行った。
15)一方、多胡邦夫はこの日午前中、弁護士が用事があったため、午後出頭するつもりだった。ところがこの日の朝、市長から警察に通報があり、その時「タゴさんが1時半に行くから」という通報だったことを多胡邦夫は逸早く知った。
16)午後1時半、多胡邦夫が安中署に出頭した。調べに対し多胡邦夫は「総額35億円ぐらい公社の特別会計口座に振込んでもらい騙し取っている。これがバレて懲戒免職になったが、いろいろ考えた末、正直に話をして処罰を受けようと思って出頭した」と述べた。
17)タゴは弁護士から「現金その他骨董品全部動かしてはいけない」と言われていたので、「だから警察により、この日6月2日に多胡邦夫の自宅等にあった金品はすべて押収された」と、多胡邦夫は後日隠し金などはなく、「5月8日に引出したカネも殆ど使わず、自宅の金庫に1000万円くらい、自宅にある(多胡邦夫の)財布に200~300万円くらい、合計1300万円くらい残っており、5月19日に妻に100万くれた位だ」と言っている。
※参考2「当会が公社幹部らを相手取り損害賠償請求訴訟を提起し、控訴審まで争った経緯」
○2008年11月18日:法廷で演説をぶちたがる岡田市長の習性と51億円事件の控訴裁判↓
http://pink.ap.teacup.com/ogawaken/150.html
※今から6年前の当会ブログ記事を参照ください。
○2010年5月21日:タゴ51億円事件発覚から15周年・・・事件発覚当時の様子を振り返る↓
http://pink.ap.teacup.com/ogawaken/464.html
タゴ事件の経緯を振り返りますと、1995年5月18日に安中市土地開発公社のあった都市計画課で、群馬銀行との間に、公社の帳簿には載っていない巨額の債務の存在に気づき、そのことを確かめるために、群馬銀行に公社の残高を問い合わせて発覚しました。安中市公社の新人職員が同5月17日に不審に思って群馬銀行に連絡を取ろうとしましたが、すでに夕方だったので、その日は確認できず、翌18日に群馬銀行からの確認結果を知って、簿外債務の存在を認識したのでした。だから、5月18日がタゴ事件の発覚記念日なのです。
その後、市・公社と群銀がそれぞれ内部調査を進めた結果、安中市の場合タゴの犯行額が当初は30億円台だったものが、40億円、50億円とみるみるうちに積み上がり、このままでは事件の真相を市民に知られたら大変なことになるとして、市役所の事件関係者の間では箝口令が敷かれ、市民に知らせる前に重大な証拠書類は全て処分することにしたのでした。
しかし、全部捨てるわけにもいかない為、熟考を重ねた結果、タゴが安中市土地開発公社特別会計口座と呼ばれる裏口座を開設した平成2年4月以前の資料を、処分することにしたのでした。そのため、夜間、公社のあった西庁舎2階から、重要文書の束を下に配置したトラックの荷台に投げおろし、そのまま市のごみ焼却施設に運び去り、燃やして証拠隠滅を図ったのでした。
つまり、平成2年4月の裏口座開設以前は表の正式口座からカネをネコババしていたわけで、当然、タゴのみならず、他の上司や同僚も知っていたことになるわけです。
■平成2年4月に、経理の判る上司という触れ込みで、高橋弘安が公社の次長として赴任してきました。タゴは「上司に経理の専門家が来るので、発覚を恐れて裏口座を作った」と警察に供述していますが、実際には新上司の高橋次長の指示で、裏口座を作った可能性が高いと思われます。なぜなら、高橋次長は、通帳のチェックなど全く不熱心で、自ら融資の際に、金融機関に赴くことはせず、相変わらずタゴを群馬銀行にひとりで行かせていたからです。
警察の捜査結果でも、平成2年4月15日までに業務上横領金として、第1期(昭和57年頃~昭和60年3月30日で6150万円、第2基(昭和60年3月30日~平成2年4月15日)で8756万円、合計1億4906万円が計上されています。
※参考:「安中市民通信まど(平成18年4月13日付第124号・号外)」↓
http://newmatsuida.web.fc2.com/madom.html
■この高橋弘安・事務局次長(事件発覚当時)は、警察も当初からマークして事情聴取をしましたが、事件発覚後、平成7年6月7日にタゴが逮捕され、事件関係者からの事情聴取が早速始まりました。
高橋次長自身も何度か事情聴取を受けて、当初は神妙に受け答えをしていましたが、同年8月くらいになると、次第に余裕綽々の態度に変わってきました。
この背景には、当時市議から県議に転じたばかりで、タゴとは公社時代、議員として監事を務めていた岡田義弘・前市長の尽力があったことが分かっています。この人物は、公社が設立されて間もない昭和56年度の監事として、決算報告書に監査結果は正しいとお墨付きを与えましたが、実際には前年度からの繰り越し500万円があるはずなのに、ゼロとしてある決算報告に押印をしてしまいました。
岡田・前市長の尽力により塀の向こうに落ちなかった市役所の職員らは今でも「岡田さんには足を向けて寝られない」と思っていることでしょう。
高崎高校の通信制を自称「中退」した岡田・県議(事件発覚当時)としては、当時は決算報告書の見方が分からなかったという見方も一部にはありますが、岡田・市議は、タゴが公社設立のために異動する前に、タゴが農政課に在籍した当時からコンタクトが始まっていたと見られます。
タゴが公社に長期間配置されたいた結果、さまざまな事件関係者がタゴのまわりに巣食って、その利権にありつこうとうごめいていました。その様子は、平成7年6月の事件公表直後に岡田義弘の自宅の隣の民家の土蔵の壁に針金でつるされていた怪文書に端的に記されていました。当会では、事件直後に寄せられた内部告発情報や刑事確定記録などから、この怪文書に記されている情報のうち、間違いだと断定できるものは一つも持ち合わせていません。
※参考:怪文書「安中をおおう黒い霧ゆるさん!」↓
http://pink.ap.teacup.com/ogawaken/img/1248098176.jpg
■タゴの取り巻きとしては、前述の高橋次長が最も近い存在で、政治関係者としては昨年物故した広上輝男・市議会議長(事件発覚当時)をはじめ、同じ会派だった早川正雄、澤博、伊藤成、柳沢健一の名前が取りざたされ、タゴが平成6年10月から12月まで東京の広尾にある自治大学校に研修に派遣されたとき、激励と称して、酒を飲めないタゴを横目に赤坂でドンチャン騒ぎをしたことなどが、市民の間で話題となっていました。
彼らはいずれも、タゴの持っている安中市内の不動産情報が目当てでしたが、なかでも、最も積極的だったのは早川市議(事件発覚当時)でした。彼はタゴの息子が通った学習塾「適塾」の創立者として、また実業家としてタゴの持つ不動産情報に目をつけ、友人らと一緒に㈱芙蓉という会社を立ち上げたほどです。その友人・知人の中にタゴの実弟の多胡茂美(昨年2015年6月下旬物故)がおり、当時、運送業を始めたばかりでした。
平成3年から、事件の発覚する平成7年5月までは、彼らのネットワークは非常に効率的に機能していました。タゴが県の企業局の下請として、西毛広域幹線道路が信越線と交差する位置に計画された安中中央駅(仮称)と、その周辺に大規模な県営住宅開発に向けて着々と計画を進めていたとき、事件が発覚してしまい、全てがストップしてしまったのでした。但し西毛広域幹線道路計画はその後、他の市町村では少しずつ進捗し、ようやく安中市内でも最近になって実現に向けた動きが見られるようになりました。当時、沿線の土地を買いあさった議員やその関係者も、これまで塩漬けだった土地がようやく脚光を焙るのでほっとしているところでしょう。
■重要参考人と目された高橋次長(事件発覚当時)が、余裕のある発言をするようになった背景には、当時県会議員になったばかりの岡田・前市長の功績があります。いまでも、高橋次長は岡田・前市長に頭が上がらないはずです。
ではなぜ、岡田・前市長がそのような政治力を発揮できたのでしょうか。それは彼が自民党の中曽根派に所属していたからです。動揺に、当時同じ会派の議長だった広上輝男もバリバリの中曽根派でした。早川正雄も同様です。こうした政治的な背景から、司直も、天の声には逆らえなかったものとみられます。
事件が発覚した平成7年5月18日から6月3日の上毛新聞の事件記事の掲載にいたる半月間で、タゴは岡田義弘の自宅に少なくとも3回出入りしたことが目撃されています。また、タゴやタゴの配偶者が高崎市八千代町にある田中善信弁護士に相談し柳川町にある中曽根系の弁護士として知られる穂積始を紹介されたりしたことも、政治関係者からのアドバイスを感じさせます。
■一方、横領した公金でタゴが大量の骨董品を購入したことが、事件直後から報道されましたが、実際にそれらの骨董品を販売した栃木県足利市の一品堂の店主の小貫達の話では、実際にはタゴにはひとつも直に販売しておらず、すべてタゴの友人で当時、甘楽信用金庫の安中支店に勤務していた石原保が一手に購入していました。小貫達は、この事実は警察から決して他言してはならない、と釘を刺されたと証言しており、その信用度はともかく、古物商の免許を持たなかったタゴにとって、金融マンでありながら古物商の免許を持つ石原保の存在は、莫大な横領金の使途を曖昧にするための方策としての骨董品購入には、大変重宝したものと思われます。
また、警察が、横領した公金で購入された骨董品は100%捕捉して確認した、と豪語したにもかかわらず、実際には、タゴが警察に逮捕される直前に、絵画等6点を、無二の親友である石原保(平成7年5月31日付で甘楽信用金庫を自主退職)に隠し持つよう、保管を依頼していました。
一品堂の小貫達も、タゴとの直接売買には一切関与していなかったということから、大量の骨董品を収めたタゴ自慢の総桐の内装の骨董倉庫でのひとつひとつの骨董品のチェック作業に、警察から立会協力を求められていました。一方で、タゴが目ぼしい絵画等6点をこっそり隠して石原保に保管を依頼していたわけですから、警察もなめられたものです。
■外形的には被害者を装う地元の有力な金融機関である群馬銀行も、タゴの存在には一目置いていました。それもそのはず、バックに中曽根系の政治家がいることや、市長のお気に入りであることを熟知しており、タゴのご機嫌を取ることは群銀として営業的に重要だと認識していました。
そのため、タゴのデタラメな公的融資案件情報を聞き出そうと、盆暮れには高級ワインセットなど贈答品を欠かさず贈ったりして、躍起になってタゴの機嫌を取っていました。シングルプレーヤーだったタゴに、ベルエアや白水ゴルフの会員権購入に際して、群銀子会社のクレジット会社の融資サービスを紹介してやったり、安中支店に勤務中になかよくなった群銀職員の結婚式にタゴが招待されるほど、群銀側はタゴのご機嫌をとるようになっていたのでした。
群馬銀行側では、捜査関係者の間でターゲットとして目されていたのは、群銀の安中支店長をしていた松井誠でした。タゴがいつも、公社の特別会計口座から預金を1000万円単位で現金で下す手続きをする間、窓口で安中支店の行員が支払業務をやっている間、いつもタゴを支店長室の応接セットに案内をして、親密に談笑していた松井支店長ですが、なぜ、口座振り込み手続きをせずに、いつも「小川市長の特命だ」というタゴの言葉に沿って、多額の現金を渡していたことに、少しも疑問を持たなかったというのは、さすがに捜査関係者も不自然さを感じたのでした。
しかし、こうした不自然さも、結局政治力でそれ以上の追及はなされずに、群馬銀行としても、逮捕者を出さずに済むことで、胸をなでおろしたに違いありません。
■このほかにも、蚕糸高校でタゴと同級だった市役所職員が、高崎競馬でしょっちゅうギャンブルに興じたりして、タゴいわく「総額1億円ものカネをつぎ込んだ」というほどギャンブル好きなタゴにつきあった市役所職員のうち少なくとも3名が事情聴取を受けています。彼らは、タゴから金品をもらっていることを供述していますが、なぜか身体出所には全く影響なく定年まで勤めあげたのでした。
なお、事件発覚当時まで、タゴと一緒に机を並べていた都市整備課職員を刑務していた公社職員だった両「竹」コンビの竹内克美と竹田清孝も、今年の4月1日付で、それぞれ産業部長→松井田支所長と、碓氷病院事務部総務課参事→企画課参事に異動し、二人とも間もなく定年退職を迎える年齢です。
となると、市役所にはタゴ事件に直接的に関係した職員がまもなく皆無となってしまうことになります。それでも、あと87年間、毎年群馬銀行にタゴの豪遊の尻拭いの和解金2000万円ずつ支払い続けるのでしょうか。
新しい女性市長が、そうした負の連鎖を断ち切るかと思いきや、やはり、裁判で決まったことだから、という理由かどうかは不明ですが、群馬銀行に対して、和解条項の解消について協議する動きは皆無のようです。
それもそのはず、土地開発公社の理事長には、群馬県の農政部長をしていた茂木一義を据えてしまい、当会からタゴ事件の情報開示請求を安中市長あてに題しても、実施機関は公社ということで、書面で「市民から情報開示請求があったので検討してほしい」と問い合わせるだけの、まだるっこい対応しかしてくれません。
■それではなぜ、全国に数多くある地方自治体の中で、これほどまでに巨額な公金詐欺横領事件の発生を安中市は許してしまったのでしょうか。このことは、事件発覚からずっと安中市民にとって解析すべき命題だったのです。
事件発覚から21年を振り返り、当会のこの件に関する見解は次のとおりです。
①タゴを公社設立時から15年間ずっと長期配置していたことは、ほかにもっとましな人材が見当たらなかった状況を意味している。
②タゴは51億円時間発覚前にも、母子家庭を装って市営住宅に住むなど、行政の定めたルールを自ら守っていなかったが、その行状を見咎めて注意する同僚や上司が皆無だった。このことは、役所内で不正を見つけたら告発しなければならないという公務員の義務を全く知らない人物ばかりがはびこっていたことを意味している。
③こうした現象は職場の閉塞感に起因するものと考えられる。その背景には、1971年11月の安中市長選挙に出馬し当選した市長の湯浅正次(ゆあさ・しょうじ)が5期20年間にわたって安中市政を司っていましたが、この期間中に市政が停滞してしまい、職員の意識や職場環境が淀み切ってしまったことがあります。1991年11月に湯浅正次のあと、市長の座を継いだ小川勝寿(おがわ・しょうじ)も、行政手腕はゼロで、湯浅正次の席をそのまま温めていたにすぎなかった。そのため、合計25年もの長期間に亘って、市役所は鎖国状態だったため、タゴ事件が発生した1995年5月は、既に腐臭を放っていた状態にあったことを意味している。
④こうした職員の公務員意識の欠如は、縁故採用が市役所に蔓延っていたことも主な原因の一つだとみる向きがある。それによれば、タゴ事件発覚当時、縁故採用を希望する者は、採用枠の権限を持つ人物に対して150万円を支払うという不文律があったという。この悪しき慣習は、驚くべきことにタゴ事件発覚後も継続され、中島博範市長や岡田義弘市長の時代になっても引き継がれていたという。中島市長時代は、それまでどおり、市長のほかにも部長クラスに1名ずつ採用枠があてがわれたため、市役所幹部の不満はあまり嵩じなかったが、岡田市長時代には市長が採用枠を独占した上に相場も250万円に跳ね上がったという。中島市長時代が3期続いたのに比べて、岡田市長時代が2期でストップしたのはこのためだという見方もある。こうした縁故採用が現在も続いないという保証は全くない。いずれにしても、タゴ事件発覚当時、夫婦で市職員という事例が多数あり驚いた記憶がある。また、どこかで見たような若手職員がいるので名前を聞くと、よく似た職員OBと同じ苗字ということが、少なくなかった。
⑤タゴ事件発覚から21年経過し、タゴ事件を知る世代が次第に高齢化しつつあることも事実。そうした中で、群馬銀行に対する和解金の支払いが続く一方で、安中市が、タゴ本人からの債務の徴収に熱意を見せていないことが大きな懸念材料だ。当会がタゴ事件のことについて安中市を相手取り住民監査請求や住民訴訟を提起すると、必ず安中市は「住民による勝手な推理と憶測に基づくものであり、証拠として採用できない」と反論してくるタゴ事件が発覚した直後は、しおらしい対応だった安中市も、時間の経過により、次第に役人の特権的な上から目線に変化してくる。したがって、タゴ51億円の再発防止には、住民による弛まない監視活動が永続的に必要であることを意味している。
■タゴ51億円事件の発覚から21年が経過しましたが、群銀への支払いはあと87年間続きかねません。安中市では市民団体によるさまざまな街おこしの努力がなされていますが、それに必要な経費がなかなか捻出できません。もし、元職員タゴの豪遊の尻拭いとして、共犯同然の群馬銀行に毎年2000万円もの公金をくれてやっている状況が解消すれば、合併10周年の記念事業ももっと充実したものになり、「古民家再生を地域の力に」することもできるのです。
※安中市合併10周年記念・年間イベントカレンダー↓
http://www.city.annaka.gunma.jp/gyousei/soumu/kikaku/files/10syuunennibenntokarennda-.pdf
※「~古民家再生を地域の力に~」↓
http://miraijuku-annaka.blogspot.jp/2016_02_01_archive.html
http://miraijuku-annaka.blogspot.jp/2016_05_01_archive.html
当会は、タゴ51億円事件発覚直後に、事件の真相究明・責任所在の明確化・再発防止策の提案と実現を目指して、安中市内で唯一活動をした市民団体であることを肝に銘じています。今後87年間継続しかねない群馬銀行への和解金支払いの早期解消と事件の真相解明による再発防止策の具現化に向けて、できる限りの努力を傾注してゆく所存です。
【ひらく会事務局】
※参考1「タゴが懲戒免職になった1995年(平成7年)5月31日から警察に出頭した6月2日までの3日間の出来事」
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1)平成7年5月31日(水)12時30分頃、多胡邦夫から「家に居る。弁護士とアポイントがとれた」と電話で高橋弘安係長のところに連絡が入った。
2)午後3時30分になって、多胡邦夫が自宅にいることがわかり、午後3時すぎに高橋弘安と竹内清孝が多胡邦夫を自宅に迎えに行き、多胡邦夫を市役所の第一応接室に連れてきた。
3)小川勝寿市長や須藤助役、青木収人役、大塚総務部長、大工原建設部長、加部局長、高橋弘安が集まって多胡邦夫本人に事実確認した。そして、「確認書」を作って多胡邦夫に住所氏名を書かせて押印をさせた。
4)小川市長が5月31日付をもって懲戒免職の処分を口頭で言い渡した。この確認書をワープロで作る間に、小川市長は多胡邦夫に「警察に自首するように。警察に行く前にはこちらに連絡すること」と出頭を促した。多胡邦夫は「一日考えさせてください」と言った。
5)午後6時頃、安中支店長松井と次長清水が市役所に来たが、この時、小川市長は公社の高橋係長と共に対応した。
6)夜、公社監事の坂東非常勤特別職員のところに小川市長が職員を通じて、6月1日午前6時30分に市役所に第二委員会室で至急の会議を開く旨連絡が入った。
7)この日、多胡邦夫の妻は田中善信弁護士のところへ行った(午前中と考えられる)。そして、夕方にも多胡邦夫と妻(多胡春美)と多胡邦夫の弟(=多胡茂美)が田中弁護士に連れられて、穂積始弁護士を訪れた。
8)この時、穂積弁護士は「市長に全部報告し、その上で処分をうけてそれから自首した方がいい」と話した。多胡邦夫は弁護士に事件の内容を言うと、弁護士は「これは大変だ。市の方の市長さんに報告しろ」と話したが、後になって、この時の段階では、多胡邦夫からの弁護依頼でなく、多胡邦夫に「そうした方がいいよ」というものであったと解説している。
9)平成7年6月1日(木)、多胡邦夫が穂積弁護士のところを再び訪れ、弁護の依頼をした。多胡邦夫は「ぜひ自首をしたい」と弁護士に言ったところ、弁護士は「現金、骨董類は全部移動してはいけないよ」と多胡邦夫に言った。
10)午前9時30分から安中市役所で安中市土地開発公社緊急役員会が開かれた。この時、参加者は、多胡邦夫の不正について金額までは聞かされなかった。
11)午前10時30分から安中市議会全員協議会で事件が報告された。
12)午後2時頃、高崎市内の善如寺弁護士の事務所へ須藤助役、大工原建設部長、加部局長、高橋弘安係長、竹田清孝の5人で今後の事件対応を相談に行った。午後5時30分頃市役所に戻った。
13)午後7時前に多胡邦夫の妻から高橋弘安係長に「明日の午後1時半に穂積弁護士と一緒に警察に行きます」と連絡が入ったので、高橋弘安は市長にこの旨を伝えた。
14)平成7年 6月2日(金)午前、小川市長が警察へ告発の相談に行った。
15)一方、多胡邦夫はこの日午前中、弁護士が用事があったため、午後出頭するつもりだった。ところがこの日の朝、市長から警察に通報があり、その時「タゴさんが1時半に行くから」という通報だったことを多胡邦夫は逸早く知った。
16)午後1時半、多胡邦夫が安中署に出頭した。調べに対し多胡邦夫は「総額35億円ぐらい公社の特別会計口座に振込んでもらい騙し取っている。これがバレて懲戒免職になったが、いろいろ考えた末、正直に話をして処罰を受けようと思って出頭した」と述べた。
17)タゴは弁護士から「現金その他骨董品全部動かしてはいけない」と言われていたので、「だから警察により、この日6月2日に多胡邦夫の自宅等にあった金品はすべて押収された」と、多胡邦夫は後日隠し金などはなく、「5月8日に引出したカネも殆ど使わず、自宅の金庫に1000万円くらい、自宅にある(多胡邦夫の)財布に200~300万円くらい、合計1300万円くらい残っており、5月19日に妻に100万くれた位だ」と言っている。
※参考2「当会が公社幹部らを相手取り損害賠償請求訴訟を提起し、控訴審まで争った経緯」
○2008年11月18日:法廷で演説をぶちたがる岡田市長の習性と51億円事件の控訴裁判↓
http://pink.ap.teacup.com/ogawaken/150.html