市政をひらく安中市民の会・市民オンブズマン群馬

1995年に群馬県安中市で起きた51億円詐欺横領事件に敢然と取組む市民団体と保守王国群馬県のオンブズマン組織の活動記録

オサカベ自動車の口利き市道を作った岡田市長から資料代20円支払えとの回答書

2009-12-14 20:22:00 | 協立精工北の市道工事の摩訶不思議
■オサカベ自動車が東邦亜鉛安中精錬所に隣接した安中市岩井地区に進出するに際して、岡田市長が自民党県連の重鎮の口利きで、通常では考えられない便宜を図った問題で、11月11日付の安中市役所建設部土木課から到来した異議申立容認通知書で同封されてきた「原材料単価契約明細書」の2ページについて、開示手数料20円を支払えという通知がありました。

 そこで、11月27日付けで、支払い拒否の通告書と、20円支払い請求の根拠について質問書を出していたところ、12月2日付けで、岡田市長(総務部秘書行政課)から、次の回答書が到来しました。

**********
【回答書】
安秘発第18555号
平成21年12月2日
異議申立人 小川 賢 様
       安中市長 岡田義弘(総務部秘書行政課)
通告書及び公開質問伏について(回答)
 平成21年11月27日付けで送付されました公開質問状の質問に対し、下記のとおり回答いたします。
    記
【質問事項】
 なぜ、「原材料単価契約明細書」のみ、コピー代金請求が必要なのか、その判断理由と根拠を明確に教示願います。
【回  答】
 はじめに、平成21年9月14日付け行政文書開示請求書により、御請求いただきました全ての情報が開示されなかったことに対しまして、深くお詫び申し上げます。
 当初の請求内容から、担当課(建設部土木課)において開示を求められた行政文書の全てが把握できなかったということが原因であると思われますが、その後、平成21年10月13日付け異議申立書により、具体的な開示請求文書を明確に御指示いただいたため、不足していた行政文書が明らかとなり、異議申立てを容認し、開示決定させていただきました。
 今後はこのようなことがないよう十分事務改善に努めますが、小川様におかれましても、郵送による御請求の場合、開示を求める文書名等はできるだけ具体的にご記入いただければ幸いです。
 「○○にかかる一切の事項」に加えて、希望する文書等も御例示していただければ、担当課においても文書の特定で齟齬を生じることも少なくなると思いますので、誠に勝手なお願いで大変恐縮ですが、御配意くださいますようお願い申し上げます。
 次に複写料請求の件ですが、その法的根拠は安中市情報公開条例第17条ただし書に「行政文書の写しの交付(電磁的記録について規則で定める方法を含む。)を受ける場合の当該写しの作成及び送付に要する費用は、開示を受ける者の負担とする。」と定められており、異議申立て容認により開示を受けた場合についても除外されておりません。
 なお、送付に要する費用(郵送料)につきましては、当初の開示請求により開示されて郵送されていれば、そこに吸収され不要な費用であったと考えられるとともに、今回は異議申立容認通知書等を同封しましたので、当然のことながら御請求しておりません。
 また、「土木課(維持管理係)の保有機材」は、異議申立てを受けて、小川様に情報提供するために土木課で新たに作成した文書であり、保有する行政文書の写しではないため、当該写しの作成に要する費用には該当せず、「安中市事務分掌規則」については、そもそもインターネットで回覧できる情報であり、参考までに送付したもので、小川様が求める行政文書(「市の土木課維持管理係がどのような場合に出動して、道路整備をやってくれるのか、それらの規程に関する情報」)ではない可能性が高かったため、複写料を請求するには問題があると判断いたしました。
 これに対して「原材料単価契約明細書」は、土木課で現実に保有する行政文書であり、異議申立言で開示を求められた「砕石のコストや価格に関する情報」であるため、その写しの作成に要した費用として複写料を請求させていただいたという次第です。
 さらに、「原材料単価契約明細書」の写しの作成に要する費用については、当初御請求した複写料には含まれておらず、開示されなかったことが原因で発生した負担ではなく、もともと当該文書を必要として開示を求めた小川様が負担すべき費用であると考えます。
 このような場合に、当初から開示すれば有料で、誤った判断で情報提供されずに、後で開示すると無料になるという主張が理解できませんが、部分的に不開示とされた文書について、異議申立てを容認して同一の文書をあらためて開示する(この場合は複写料が二重に発生してしまいます。)のとは事情が異なりますので、御理解を賜りますようお願い申し上げます。
 このことに関しましては、以前にもお問い合わせいただき、指摘された群馬県の対応について照会したところ、安中市と同様の対応であったことを回答し、その後、複写料を納入していただいたという経過もございます。
 また、郵送による開示につきましては安中市情報公開事務取扱規程第27条により、事前に複写料及び郵送料の納入を確認してから送付することになっておりますが、小川様にあっては、第28条により「市民であって確実に納付が見込まれ」、「写しの交付が緊急を要すると認められる」ため、従前より後納扱いとさせていただいております。
 以上の諸事情もあわせて御賢察いただき、御請求いたしました複写料について、お手数をかけて大変申し訳なく存じますが、あらためて御納付くださいますよう重ねてお願い申し上げます。
    担当:秘書行政課 文書法規係
    電話 382-1111(内線1043・1044)
**********

■今年、市民オンブズマン群馬が実施した群馬県と12市のうちで情報開示ランキングで第4位となった安中市だけに、丁重な回答内容となっていますが、問題の根本を注視しない(あるいは、したくない)回答になっています。

 岡田市長の回答書では、「担当課(建設部土木課)で開示請求文書の全てが把握できなかったのが原因らしいが、その後、平成21年10月13日付け異議申立書により、具体的な文書が明確に指示されたので、不足文書が明らかとなり、異議申立てを容認し、開示決定した」と釈明されています。

 そして、返す刀で「今後、十分事務改善に努めるが、申立人も、郵送請求の場合、開示を求める文書名等はできるだけ具体的に記入するように」と指示があり、請求文書の表現も「○○にかかる一切の事項」だけでなく、「希望文書等も例示すれば、担当課で文書特定で齟齬を生じることも少なくなる」と細かく指示してきました。

■秘書行政課の回答内容は一見もっともですが、何度読んでも、本件の実施機関である土木課を擁護しているとしか、思えません。なぜなら、当会が9月14日付で行政文書開示請求をした際には、「岩井地区の東邦亜鉛安中精錬所隣接地に、高崎市並榎町のオサカベ自動車が進出するための便宜を図るために、平成21年1月25日に市道岩35号線道路改良工事の入札で内田組が落札して工事が施工され、3月末までに終了したようだが、年度を過ぎてもまだ開通の気配がない。これについて、次の件に関する一切の情報」として、次のように具体的な情報について記載しました。

①異例尽くしのこの事業手続きの背後に、地元では政治関係者あるいは政党関係者の口利きがあったとする未確認情報がある。よって、そうした口利きに関わる一切の情報。
②当該道路改良工事の入札では、設計図面の中に舗装工事が含まれているようだが、現在に至るまでに未舗装となっており、現在ペンペン草が生えている。よって、本件工事の完了届や完工検査証など、工事の完工に関わる一切の情報。
③その後、平成20年度になり、改良工事で作られた道路の先の工事が行われ、バラスが敷かれた。ついては、この工事にかかる一切の情報。

 上記③のように、具体的に「バラス」が敷かれたことについて、言及しており、バラスが敷かれた工事について、「一切の情報」を開示請求しているのですから、自前で工事をしたから入札調書はなくても、当然、材料費としてバラスや燃料などの調達が必要であることは気が付くはずです。

 要するに、岡田市長の利権の受け皿として、とりわけイエスマンの茶坊主で固められている建設部のセクションであるため、都合の悪いことは、まず隠しておき、住民監査などで、第3者への説明が必要になった場合に、渋々、後出しすればいい、と考えているわけです。再三にわたる当会の情報開示請求に対して、実施機関として、緊張感がなくなっている証拠といえましょう。

■そのような状況下で、市民への情報開示の担当窓口である秘書行政課も、岡田市長や幹部の言いなりにならざるをえないとしても、いちおう釈明を文書で示したことは、評価しましょう。

 しかし、「当初から開示すれば有料で、誤った判断で情報提供されずに、後で開示すると無料になるという主張が理解できない」という秘書行政課の主張については、明確に否定します。土木課により、恣意的に開示情報から外しておきながら、当会が、住民監査請求と抱き合わせで異議申立をしたからこそ、土木課は隠し通せなくなったわけですから、これは明らかに土木課の責任であり、当該資料のコピー代について当会は支払う立場にはありません。

■一方、「土木課(維持管理係)の保有機材」について、秘書行政課の見解は、「異議申立てを受けて、申立人に情報提供するために土木課で新たに作成した文書であり、保有する行政文書の写しではない」としていますが、情報開示の対象となる公文書は、実施機関が保有または作成した文書を含むことから、本来はこれも情報開示の対象となるはずです。

 保有していた行政文書の写しは有償で、新たに作成した文書の写しは無償という理屈もよくわかりません。

■さらに「安中市事務分掌規則」について、秘書行政課は、「市役所のHPに掲載してありインターネットで回覧できるが、参考送付したもので、申立人が求める行政文書ではない可能性が高かったため、複写料を請求するには問題があると判断した」とのことですが、これまで、市役所のHPで掲載されている条例や要綱、規則の類は、HPのアドレスを教示してもらえば、それで済むのであり、実際に、秘書行政課から、そのように情報連絡を受けたこともあります。この場合、コピー代は不要なので、せっかくコピーしていただいたのに無料にしていただきました。

 この論理から言えば、土木課で保有する「原材料単価契約明細書」も、市役所のHPに掲載してもらえれば、市民が勝手にダウンロードするので、費用は要らなくなります。

■このように、考えれば考えるほど、岡田市長(秘書行政課)からの回答書の論理は、整合性にかけているとしか思えません。

 安中市民として、タゴ事件の最中でも、市民税はきちんと納めてきましたし、多忙な市役所での窓口業務を少しでも軽減すべく、これまで郵送で情報開示手続きをお願いし、きちんと手数料を支払ってきましたが、20円の支払い拒否で、今後、どのような措置が取られるのか、不安があります。

■安中市土地開発公社51億円巨額詐欺横領事件で、群馬銀行に今年のクリスマスから今後あらたに10年間、毎年2000万円を支払い、一方で、タゴへの24億円あまりの損害賠償請求権を放棄したかもしれない金満の岡田市政にとっては、20円などどうってことはないのでしょうが、市民としては、20円不払いを理由に、行政情報の開示が受けられなくなるのも困ります。

 来年1月1日午前10時から地元の北野殿公会堂で開かれる新年会で、岡田市長の新年挨拶のあと、直訴してみたいと思います。

【ひらく会情報部】


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秘密のヴェールに包まれていた閉鎖都市ウラジオストク・・・現在の実態(その7)

2009-12-13 23:56:00 | 国内外からのトピックス
■ロシアの食べ物と言えば、やはりボルシチです。ボルシチの具にはいろいろな野菜や肉や卵など多種多様な食材が使われ、あたかも日本の具沢山の味噌汁のようです。食材の組み合わせでいろいろなボルシチがあります。このほか、赤カブなどの野菜サラダも種類が豊富で、ぺルメリという一口水餃子など、味もさっぱりしていて、日本人にもよく合います。

 市内には、ロシア料理のほかにも、イタリア料理、ドイツ料理、フランス料理、中国料理、韓国料理、そして数は少ないものの日本料理店もあります。



ボルシチとぺルメリ。ウオッカはロシア料理に欠かせない。
■街のあちこちには、24時間営業のいわゆるコンビニエンス・ストアがあります。しかし、日本で見かけるチェーン店の名前は見当たりません。すべてロシア資本です。内部の品揃えは、かなり豊富で、とくにウオッカをはじめとする酒類は、豊富ですが、日本のコンビニに比べると、店内は狭く、品揃えやディスプレーも今一つです。でも、33年前に訪れたソ連時代の店舗に比べると、クリスマスのイルミネーションが飾ってあったりして、隔世の感があります。


グム百貨店に↑クリスマスの飾りものを買いに来た親子連れ。

 何しろ、夜には外気温がマイナス15度に下がり冷凍庫同然ですが、もちろん建物の中は20度C前後に暖房されているため、冷凍のショーケースで肉や魚が売られています。面白いのは、日中、屋外で営業しているホットドッグなどの屋台です。なにしろ、日中でもマイナス10度程度になるため、商品が冷凍品にならないように、断熱材で保温した容器に入れて売っています。

■ウラジオストクの経済には中国が大きく関係しています。事実、中国国境までは60キロしかなく、山の上のアパートでは中国のテレビ放送も受信できるところがあるとか。また、韓国も現代グループが巨大ホテルを営業するなど、力を入れています。


金角湾を望む高台にそびえる現代ホテル。シングル1泊2万円以上。

 一方、日本とはソ連崩壊直後の90年代に一時盛んとなり、前述のとおり1991年に新潟、1992年には秋田・函館と姉妹都市提携が行われたり、ウラジオストクのテレビ局に、テレビ朝日など日本の民放各社も駐在員を置いた時期がありますが、現在はNHKだけとなっています。


街角風景。

 その後、2000年代になり、中古車ビジネスを通じて再び経済的な関わり合いが強くなりましたが、最近、ロシア国産の自動車振興のために中古車に対する関税が大きく引き上げられてからは、新たな分野での取引を模索する動きが台頭しつつあります。帰路、新潟への飛行機にはそうした新たなビジネスチャンスを求めて、日本を訪問するロシア人の若いビジネスマンらがたくさん乗っていました。皆、日本語が堪能で、東京はもとより、日本のあちこちに行ったことがあり、日本に関する知識の豊富なのには驚かされました。

■異なり、日本では経済不況のため、今夏のウラジオストクへの観光客は壊滅的な減少を示しました。そうした状況下でも、日本人の若い世代でウラジオストクを訪れる人はじわじわ増えているそうです。方言や訛りのないロシア語は、ロシアやCIS(旧ソ連邦諸国)で問題なく通じるので、わざわざモスクワに行かなくても、身近なウラジオストクで学べるからです。


ホテルの受付にある時計。首都モスクワとの時差はなんと7時間。ロシアの広さを痛感させられる。

 北方領土返還交渉をはじめ、サハリンの天然ガス開発を巡るロシアの横暴など、ロシア政府の対応は旧態依然とした体質を残していますが、すくなくとも民間では、遠いモスクワよりも、身近な日本に親しみを抱くロシア人は大勢いることは確かで、APEC開催を契機に、ウラジオストクと日本の交流は、政治的に安定が続けば、今後さらに盛んになることは確実と思われます。


前菜はサラダが定番。新鮮野菜には事欠かない。

 ウラジオストクの様子については、今後も機会があればご報告します。

【ひらく会海外取材班・この項おわり】

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秘密のヴェールに包まれていた閉鎖都市ウラジオストク・・・現在の実態(その6)

2009-12-12 23:09:00 | 国内外からのトピックス
■ウラジオストクは全長9288キロのシベリア鉄道の起点でもあります。1905年までに中国領満州のハルビンを経由して、モスクワとウラジオストクを繋ぐシベリア鉄道が建設されました。ウラジオストク中央駅の構内には、起点を示す標識が立っています。


ウラジオストク中央駅構内にある全長9288kmのシベリア鉄道の始点を示すマイルポスト。国章である双頭の鷲は東ローマ帝国と同じもの。

 ウラジオストク中央駅はシベリア鉄道の東の始発駅です。最近イタリアの技師を呼んで、駅舎の内外装を化粧直ししたとのことで、ヨーロッパ風の雰囲気を漂わせています。


ヨーロッパ的な佇まいを見せる中央駅のファサード(外装)。

 シベリア鉄道の長距離列車の行き先は中国のハルビンをはじめ、内陸のハバロフスクやイルクーツク、そして遥か9288キロ先の首都モスクワ、そしてウクライナまで続いています。



長距離列車オケアン号。モスクワまで6泊7日、バイカル湖のあるイルクーツクまでは3泊4日、ハバロフスクまでなら1泊2日の旅となる。二人用と四人用のコンパートメント(客室)がある。電気機関車でけん引される客車の煙突から出ているのは暖房用の石炭ストーブの煙。

■市内公共交通としては、地下鉄こそありませんが、路面電車、トロリーバス、バス、タクシーが多数運行されています。金角湾を望む丘にはケーブルカーもあります。周辺の島戸の間にはフェリーが運航されています。シベリア鉄道もウラジオストク市内は区間ローカル列車が運転されて、通勤など市内交通の一部を担っていますが、日本と違い本数は限られます。

 市内の中心部の目抜き通りには、帝政時代の面影を色濃く残すエキゾチックな街並みがみられます。目抜き通りを散策している限り、ヨーロッパの風情です。欧米のブランドショップもあり、冬季のため、道行く人たちは厚手のオーバーコートを羽織っていますが、若い女性は最新ファッションに関心が高く洗練されています。


沿海州を管轄する州庁舎のある高層ビル。

■ソ連時代に閉鎖都市となる前は、ウラジオストクは国際都市でした。100年前には約6,000人の日本人が移り住み、本人街もありました。ソ連崩壊直後の1991年には新潟、1992年には秋田・函館と姉妹都市となり、再び、日本となじみの深い都市となりつつあります。


書店で見かけた来年のカレンダー。ロシアではクリスマスは1月初旬なので、1月半ばまで休みとなる。5月にも休みがあるが、これらの休日は直前に議会で決まるので、このカレンダーには休日として載っていない。これらを含めると、日本以上に休日が多いという。

【ひらく会海外取材班・この項つづく】

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秘密のヴェールに包まれていた閉鎖都市ウラジオストク・・・現在の実態(その5)

2009-12-11 23:56:00 | 国内外からのトピックス
■1917年10月のロシア革命後も、極東に位置していたウラジオストクは1922年まで、赤軍=ソ連政権が進出して来ませんでした。この空白期間に、アトランタ条約で、イギリスとアメリカ軍が当地に入りました。日本も、現地で発生した商社員殺人事件を理由に、軍隊を派遣し、当地のみならず、シベリアのかなり奥地まで進駐しました。これがシベリア出兵とよばれるものです。

 白軍と赤軍による内戦が続いていた1920~1922年の間、極東共和国の支配下にあったウラジオストクには、各地から白系ロシア人が押し寄せたため、市の人口は、9万7千人から41万人までに増加しました。しかし、1922年10月25日に、最後の外国軍部隊が撤収したため、ウラジオストクは赤軍の支配下に入りました。市の人口は、あっという間に10万8千人にまで減少しました。


ロシア革命で勃発した国民戦争で赤軍が勝利したのを記念する革命広場。両側のモニュメントは、パルチザンの貢献を示す銅像。
■1935年、ウラジオストクを本部とするソ連海軍太平洋艦隊が創設されました。1938年には沿海州の州都になり、軍港として重視され、1958年からソ連崩壊の1991年まで、外国人の立入や居住が厳禁される閉鎖都市でした。その間、ウラジオストクから東に車で3時間のナホトカが外国貿易港の機能を代行していました。


軍事拠点の閉鎖都市だったため、観光スポットにも兵器の展示が多い。写真は第2次大戦でバルト海まで遠征した潜水艦博物館。

 ソ連崩壊後は、閉鎖都市指定が解除され、ロシア経済が徐々に復活するにつれて、ウラジオストクは、隣国である中国、北朝鮮や、日本海の対岸にある日本や韓国との経済関係が次第に活発化しています。


いまでは珍しくなったレーニン像。ロシアの殆んどの都市から姿を消したが、極東のウラジオでは、まだ撤去されずに中央駅前広場の一角に残っている。


ウラジオストクには、スターリンの名前を冠したトンネルがある。粛清で悪名高いスターリンの名前が残っているのは極めて珍しく、おそらくロシア全土でも数える場所しかないらしい。

■以前は、ロシア国内だけの就航だったウラジオストク航空が1998年から国際線の運航を開始しています。現在は、現在、日本の新潟空港(週2便、木・日、最新のツポレフTu204-300型機)、富山空港(週3便、月・水・金、ただし小型ターボプロップ機)、関西国際空港(週2便、月・金、ただし夏期限定)、北九州空港(季節運航)との間に定期便が、成田国際空港との間に定期チャーター便が就航しています。

 平らな場所が少ないウラジオストクでは、市中心部から北に50kmほどのところにあるアルチョム市に空港があります。ロシア国内主要都市と日本の新潟、富山など上記都市のほか、ソウル、北京、ベトナム、タイ、ピョンヤンと接続しています。


ウラジオストク空港の国際線出発ロビーにある表示板。この直後に新潟行きが翌日に再度延期となった。

 海路としては最近、鳥取県境港との間にも週1便、韓国東海経由ですがフェリーが就航し始めました。富山県高岡市の伏木港とも月2回程度運航されています。


ウラジオストク中央駅に隣接するフェリーターミナル(右手の建物)。

■今回は、新潟空港から出発しましたが、圧倒的にロシア人が多く、電気製品をはじめ、紙おむつなどの日用品や、寿司の大きな詰め合わせを手にぶら提げた人も何人か見かけました。どうやら、出国手続き後、待合室で、家族で食べるようです。

 チェックインで預けるトランクや、機内持ち込み手荷物は全部X線検査を受けたあと、カウンターで搭乗手続きを行います。ところが、出口専用のはずのドアから、X線検査を受けないまま、手荷物を持って入るロシア人が複数いました。さっそく、付近であくびしていた新潟県警の警察官に通報しました。


新潟空港国際線チェックインカウンターにある手続き終了後の出口専用ドア(写真中央)。ここから、右奥にあるX線検査を受けずに、荷物を持ち込みチェックインで預けるロシア人を複数目撃した。

■警察官は「あっそう。空港の検査や監理施設については、国交省の仕事なので、自分には権限がない」というばかり。当会が「きちんと管理をしないと、X線検査の意味がない。だったら、X線検査など不要にすればいいのでは」とコメントすると、「いちおう、勤務後、空港管理会社のほうには伝えておくから」と、いかにも面倒くさそうに言われました。

 出国手続き後、空港待合室で2時間遅れの飛行機を待っていると、目の前の売店の棚にあったハローキティの筆箱を手にしたお下げ髪の少女が、そのまま母親の横に座りました。どうみても万引きです。相当数の被害があると思われますが、見張り用のビデオや、警告のためのロシア語の張り紙も見当たりません。ロシア人にとっては、日本出発前の格好の土産調達場所のようです。


新潟空港の搭乗待合室にある免税店。万引きによる売り上げへの影響はどうなっているのか。

【ひらく会海外取材班・この項つづく】

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秘密のヴェールに包まれていた閉鎖都市ウラジオストク・・・現在の実態(その4)

2009-12-10 23:37:00 | 国内外からのトピックス
■ウラジオストクの市民は殆ど高層アパートに住んでいますが、これらのアパート群は、街の中心部から少し離れた場所に、ソ連時代から次々に建てられてきました。それぞれの年代で少しずつ違った設計なので、市民は、高層アパートを見れば建築年代がわかるそうです。

 ソ連崩壊後18年が経過しましたが、この過程で所得格差が生じ、裕福な人たちは、郊外の一戸建てに住んでいるか、街の中央部に居住しています。


市内から50キロ離れたウラジオ空港に向かう途中に見える一戸建て。ただし、これはどうやらダーチャと呼ばれる別荘らしい。91年のソ連崩壊後、ウラジオ市民も競って別荘での農園作業がブームになったが、最近は耕作放棄状態のダーチャが増えたという。

■平均的な一人当たりの所得は、日本と比べるとかなり少ないという話ですが、電気やガス、水道などの光熱費や、税金などはかなり安く、可処分所得で比較すると、日本とあまり差がなくなります。事実、物価は日本と比べても遜色がありません。


国営デパートとして有名なグム百貨店の内部。装飾品、衣料品、スポーツ用品、楽器、日用品など売っているが、いわゆる日本のデパ地下のような食料品売り場はない。

 昨年秋のリーマンショックに端を発した世界経済の減速の影響は、この成長著しいウラジオストクにも影を落としています。街のレストランも経済ショック前は賑わっていましたが、現在は閑古鳥状態です。日本からの観光客も激減し、今年の夏はほとんどゼロ状態だったそうです。実際、新潟空港からハバロフスクに向かった飛行機も搭乗率は半分以下でした。

■ウラジオストクの歴史は多様です。帝政ロシア時代、沿海州は19世紀まで清国の支配地域で満州の一部でしたが、1860年に北京条約によって沿海州一帯が、清からロシア帝国のものとなりました。同年、最初の26名の部隊が沿海州の南部に上陸して、ウラジオストクの町の建設が始まりました。


右側に見える先のとがったモニュメントが初上陸の記念碑。ここからウラジオストクの歴史が始まった。その向こうには、ロシア太平洋艦隊のフリゲート艦が係留されている。閉鎖都市時代は、カメラなど到底向けられなかったが、今では自由に撮影できる。

 この後20年間、タックスヘブン(不課税特権)が与えられていたため、ウラジオストクには多くの外国人がビジネスを求めて集まり、目覚ましく発展しました。当時、日本人だけでも1万人近く居住していたそうです。ちなみに、26名が初上陸してから150年後の来年には、大きな記念式典が開催されるそうです。

 帝政ロシアが悲願としていた極東での不凍港として、ウラジオストクにはロシア帝国海軍バルト艦隊太平洋戦隊の分遣隊が設置され、後に強化されてウラジオストク巡洋艦隊となりました。その後、ソ連時代には、ロシア太平洋艦隊の司令部と基地が置かれ、現在も軍艦が停泊しています。ただし、原子力潜水艦の基地の場所は今でも軍事機密だとか。

【ひらく会海外取材班・この項つづく】

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