日々

穏やかな日々を

<地熱発電>

2011年06月11日 19時43分05秒 | 
<地熱発電>国立公園の外から「斜め掘り」 十和田八幡平
毎日新聞 6月11日(土)15時1分配信


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斜め掘り地熱発電のしくみ
 三菱マテリアルと東北電力が地中を斜めに掘る技術を利用して、国立公園の直下にある地熱エネルギーを使う発電を計画していることが11日、分かった。日本は地熱資源の約8割が国立公園など自然公園に存在するとされるが、開発が厳しく制限されていた。しかし、政府は10年6月、景観に配慮した開発を認めるよう規制を緩和した。実現すれば斜め掘りを利用した日本初の地熱発電となり、他地域の地熱活用にもはずみがつきそうだ。

【ニュースがわかる】地熱発電の仕組み 火山は巨大な“地下発電所”

 三菱マテリアルは7月、十和田八幡平国立公園から0.5キロ離れた澄川(すみかわ)地熱発電所(秋田県鹿角市)から掘削を開始。地下2.4キロの地点まで井戸を斜めに掘り進め、年内に約0.5万キロワット分の蒸気が生産できる。蒸気を利用した発電は東北電力が行う。同発電所は現在約3.5万キロワット分の発電能力を持つ。ほぼ真下の地熱資源を利用しているが、国立公園直下の方が、より高温で発電に適した蒸気が得られるという。

 自然公園の地熱資源は政府が1972年、景観保護などを理由に「(すでに)発電所がある6地点以外は、新規開発を推進しない」と通達を出し、活用を制限してきた。しかし、10年6月、再生可能エネルギーを有効活用するため、規制を見直す方針を閣議決定。斜め掘りは地表の自然景観に配慮しているとして、環境省も許可に動き始めた。東北電力が秋田県湯沢市の上(うえ)の岱(たい)地熱発電所で同様の許可を取得している。

 経済産業省などによると、日本はインドネシア、米国に次ぐ世界3位の「地熱資源国」。原発約20基分にあたる推定2000万キロワット超の地熱資源がある。しかし、原子力や火力に比べてコストがかかるとして、54万キロワット分しか活用されていない。自然公園にある資源を有効活用できれば、規模拡大によるコスト低減も期待されている。ただ、地熱発電は、温泉事業への悪影響を懸念する声があり、地元の理解を得ながら開発を進める必要がある。【寺田剛】

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辞めさせてあとどうするの?それが見えない

2011年06月11日 19時41分50秒 | 

連合会長、早期退陣の決断迫る=最大の支持団体、首相に圧力
 菅直人首相と連合の古賀伸明会長による政府・連合トップ会談が10日夕、首相官邸で開かれた。古賀会長は、首相の辞任時期をめぐる混乱に触れ「政治の現下の状況に憂慮を感じざるを得ない。この状態が続けば政治空白が一日一日とつながっていく」と述べ、早期退陣を促した。
 民主党内で首相の早期退陣を求める声が大勢となる中、同党の最大の支持団体である連合のトップが直接、決断を迫ったことで、8月までの続投を模索する首相の孤立化はさらに進んだ。 
 会談で古賀会長は「与野党の垣根を越え、オールジャパン態勢で難局を乗り越えなければならない」と述べ、野党の協力取り付けに向けた環境整備を要望。さらに「与党は緊急な政治課題の解決に全力を挙げ、(退陣表明した)首相の思いを党全体が共有し、それを実現して前に進むことが必要だ」と語った。
 これに対し首相は、「仮設住宅(の建設・入居)やがれき(の処理)などを加速させていかなければならない」と述べ、がれき処理などのめどが付く8月まで続投する姿勢を重ねて示した。
 会談には政府側から枝野幸男官房長官ら、連合側から南雲弘行事務局長らが同席した。


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福島原発事故3カ月

2011年06月11日 01時26分36秒 | 地域
<検証・大震災>福島原発事故3カ月(1) 国の避難指示、被災地を翻弄
毎日新聞 6月10日(金)15時57分配信


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警戒区域に設定されるのを前に、福島第一原発の20キロ圏内を出入りする車(一部画像を処理しています)=福島県南相馬市で2011年4月21日須賀川理撮影
 東日本大震災に伴う東京電力福島第1原発の事故で、福島県の自治体は住民の避難をめぐってどう判断し、動いたのか。国に翻弄(ほんろう)され続けた軌跡を追う。

【検証・大震災 福島原発事故3カ月】地図と年表

 ◆3月12日夜、福島県庁対策本部

 ◇「本当に20キロですか?」

 3月11日の東日本大震災発生後、首相官邸地下の危機管理センター別室に詰めていた菅直人首相は海江田万里経済産業相らと協議し、午後9時23分、第1原発から半径3キロ圏内に避難指示を出した。12日未明には、1号機の格納容器内の圧力を下げるため、弁を開けて放射性物質を含む水蒸気を逃がす「ベント」実施の必要性が生じるが、午前3時、これを発表した枝野幸男官房長官は記者会見で「(半径3キロの)避難指示の内容に変更はありません」と2度繰り返した。

 ところが直後に事態は急変する。午前5時、仮眠中の枝野長官は海江田経産相の「ベントをまだやっていない」という叫び声で起こされた。「格納容器が破裂する恐れがある」という班目春樹・内閣府原子力安全委員長の助言を受け、範囲をいきなり「半径10キロ」まで拡大する方針を決め、午前5時44分に発表した。

 官邸での鳩首(きゅうしゅ)協議では「住民がパニックになる」との声も上がったが、「やり過ぎてもいいから避難させよう」という枝野長官らが押し切った。

 12日午前6時前。福島県大熊町役場に泊まり込んでいた渡辺利綱町長に、細野豪志・首相補佐官から電話が入った。町には第1原発がある。「総理から原発の10キロ圏内に避難指示が出されました」。原発はどんな状況なのか。渡辺町長は細野補佐官に聞きたかったが、説明はなかった。「いろいろあるでしょうが、安全確保のために協力してください」。細野補佐官はそう言って短い電話を切った。

 大熊町など原発周辺自治体は、事故を想定した訓練を毎年実施している。「原発の注水ポンプが故障して格納容器の圧力が高まり、放射性物質が漏れる」とも想定していたが、町内の体育館へ集合して訓練は終わる。原発が爆発したり、町民が町外に逃げ出さなければならない事態は「想定外」だった。

 12日朝、福島県内だけでなく茨城県や東京都のバス会社から避難用バスが続々と町へ到着した。国土交通省旅客課は、最初の避難指示より1時間以上も前に官邸から「当座100台のバス確保」を命じられていた。混乱はあったものの、自主避難を除いた約8000人が県内約30カ所の避難所に向け出発した。

 最後の1台が出たのは12日午後2時ごろ。町役場に残った鈴木久友総務課長は、北東約4キロにある原発から「パーン」という爆発音を聞いた。午後3時36分、1号機での最初の水素爆発だった。

 「ああーっ」。爆発の映像が官邸のモニターで流れた瞬間、班目委員長が頭を抱えてうずくまった。衝撃を受けた官邸は午後6時25分、避難指示の範囲を「半径20キロ圏内」に拡大した。

 原子力安全委の防災対策指針は「防災対策を重点的に充実すべき地域の範囲」(EPZ)の目安を「原発から半径8~10キロ以内」と規定。これ以遠では「避難や屋内退避などの防護措置は必要ない」ということだ。「半径20キロに根拠はない。エイヤッ、と決めた数字だった」と、決定過程に関わった文部科学省幹部は振り返った。

検証・大震災:福島原発事故3カ月(2) 葛尾村事前準備
 爆発が起きた時、葛尾村役場1階の災害対策本部は、不思議な静けさに包まれた。村はほぼ全域が半径20キロ圏外にある。職員の視線は壁際のテレビにくぎ付けになり、爆発を伝える実況中継だけが庁内に響いていた。2階にいた松本允秀村長が下りてきた。「テレビ、見たか?」

 村役場は原発から西北西に約25キロ。松本村長に松本静男・住民生活課長(現災害対策担当課長)が耳打ちした。「ここも避難区域に入るかもしれません。最悪のシナリオを想定しましょう」。松本村長は「まだ動く時期ではない」と返しながら、村民約1600人の避難準備を了承した。

 その夜、避難区域が10キロから20キロ圏まで広がったことを、松本村長はテレビのニュース速報で知った。国や県から連絡はない。松本村長は「連絡がないのはまだ安全だからではないか」と思った。

 同じ12日夜、福島県庁の災害対策本部で、片寄久巳・原子力安全対策課主幹は衛星電話に向かって怒鳴るような大声を上げた。「本当に20キロですか?」。相手は政府の窓口、経済産業省原子力安全・保安院の幹部だ。

 「原発事故に巻き込まれるはずがない」区域。どれほどの数の県民を、どのように避難させるのか。県の担当職員らはコンパスで20キロの線引きを始めたが「中心点は原発か、敷地境界か」と議論になる有り様だった。

 「万一に備え受け入れ可能な市町村を紹介してほしい」。葛尾村のそんな要望も、県は「20キロ圏以上の避難指示は出ていない」と突き返すしかなかった。村役場には「県に何を言っても無駄だ」とあきらめが広がった。

 原発から10~40キロほど北に位置する南相馬市にも国からの連絡はなかった。大谷(おおがい)和夫・市長公室長は、避難区域が10キロから20キロ圏まで広がったことを、やはりテレビで知る。「困ったことになった」。市内の小高区(旧小高町)は大半が20キロ圏内で、約1万4000人の住民がいる。だが、市にも10キロ以上の避難を想定した防災マニュアルはない。

 市は独自の判断を迫られた。「とにかく20キロ圏外に逃げてください」。防災無線を流し、広報車を走らせた。

検証・大震災:福島原発事故3カ月(3) 「決め手ほしい」
 葛尾村は避難に向けた準備を着々と進めた。13日朝から村民や村外からの避難者に聞き取りをして約150人に移動手段がないことを把握。村営バス5台を準備し、同日夕にはドライバーや誘導役として村営バスの運転手ら15人を指名した。

 原発に関する村の情報源は国や県ではなく、東電やその協力企業の社員を家族に持つ村職員や村民のネットワーク、それに広域消防だった。

 14日午前11時1分、今度は3号機が爆発した。「報道されているより深刻」「東電の社員が原発から撤退し始めた」。松本村長は、職員の話から事態の悪化を感じ取っていた。

 情報交換のため松本村長は午後6時半、原発までの距離がほぼ同じ川内村の遠藤雄幸村長と協議した。「うちは自力で逃げる準備をした」。そう告げる松本村長に、遠藤村長は「こっちは沿岸自治体の避難者を預かっている。動くことは考えていない」と応えた。この会話を最後に防災無線は使用不能になる。葛尾村は孤立し、村独自で避難するかどうか判断するほかなかった。

 午後9時前、災害対策本部のテーブルを村幹部が囲んだ。「国の避難指示は20キロから30キロに広がる可能性もある」。職員の報告を松本村長は腕組みをしながら聞いていた。「決め手がほしい」

 その時、防護服姿の地元の消防職員が息を切らしながら飛び込んできた。「消防無線で聞いたんですが……」。原発事故対策の拠点である大熊町のオフサイトセンターまでが撤退を始めたというのだ。

 「避難すっぺ」。松本村長は即座に判断した。もし避難が空騒ぎに終わったら、責任を取るしかない。腹をくくった。「国や県よりずっと情報は少ない。しかし、一か八かの賭けではない」

 予定通り村民ら約150人を乗せたバス5台が午後10時45分、村役場を出発した。翌朝、2号機と4号機が相次いで爆発。北西に吹く風に乗って放射性物質が村に降下したのは、すべての村民が避難を終えた後だった。

検証・大震災:福島原発事故3カ月(4) 「食料、明日には尽きる」
 ◆3月15日、南相馬市対策本部

 福島第1原発2号機と4号機で爆発が起きた15日の午前11時。菅首相は原発から半径20~30キロ圏の住民に屋内退避を求めると発表した。南相馬市は市役所のある市の中心部、原町区(旧原町市)がその20~30キロ圏にあたる。だが、この時も国からの連絡はない。

 同市は比較的原発に近い10~20キロ圏も抱え、市への「風評」は既に広がっていた。大手運送業者は市内への物資搬送を拒んだ。屋内退避は原子力災害対策特別措置法に基づく「指示」ではないものの、内外にいっそう「30キロ圏内は危ない」と印象づけた。

 同市は沿岸部で4600戸以上が津波で破壊され、死者・行方不明者が700人を超えた。それでも大熊町などの被災者を受け入れ、約30カ所に避難していたのは約1万人。15日の市災害対策本部会議で市幹部は「多くの避難所で暖房用の灯油が底をつき、提供できる食料は明日には尽きるような状態だ」と報告した。

 桜井勝延市長は「もう被災者を支えきれない」と覚悟した。市外に2次避難させることを決め、夜のNHKニュースで全国に窮状を訴えた。「原発事故で汚染地域扱いされ、物資が届かない。国は指示するが情報はくれない。何とか助けてほしい」

 翌16日朝、新潟県の泉田裕彦知事から「被災者は何人でも受け入れる」と申し出があった。桜井市長らは市内7カ所の避難所などで説明会を開き「ここを維持できない。新潟に行っていただきたい」と頭を下げた。

 だが、新潟県の用意したバスも30キロ圏内には入ってこない。市の手配したバスで30キロ圏境まで住民を運び、そこから先で乗り換えてもらった。

 16日夜、計80キロリットルのガソリンを積んだタンクローリー4台が突然、経済産業省資源エネルギー庁の手配で市に到着した。市幹部は「NHKで桜井市長の話を聞き、慌てて飛んできたのではないか」と推測した。タンクローリーは15日夜、菅首相が原発周辺自治体へガソリンを提供するため経産省に指示したものだった。

 17日には国土交通省の津川祥吾政務官が初めて市を訪れた。「必要なものを言ってほしい」。津川政務官は市長にそう伝えた。震災7日目のことだった。

検証・大震災:福島原発事故3カ月(5) 人口の7割脱出
 南相馬市立総合病院の小沢政光事務部長は液体酸素の確保に苦しんでいた。震災2日後にも、貯蔵タンクの液体酸素が切れるのを知らせる赤い警報ランプが点灯し、半日から1日で入院患者の人工呼吸器が止まりそうになった。いわき市の取引業者と連絡が取れず、市役所の災害電話を使ってNTTの交換手を経由しながら別の業者とやり取りし、ぎりぎりで補充できた。

 15日になっていわき市の取引業者と電話がつながったが、今度は「屋内退避」が壁になる。業者は「そちらへの立ち入りが制限されているので、市から緊急要請の文書を出してもらわないと」と言う。小沢事務部長は「ここは放射線量も低いので大丈夫ですから」と頼み込み、やっと納品してもらった。

 約250人いた病院スタッフの3分の2は14日の3号機の水素爆発で避難し、200人以上の入院患者を支えきれなくなっていた。自衛隊の支援で全員転院できたのは、20日になってからだった。

 ガソリンがなければ住民生活を守れない。タンクローリーが届けたガソリンは、市内のほとんどの車がガス欠だったためすぐに底をつく。市はエネルギー庁が残していった空のタンクローリーを使うことにした。だが、誰でも運転できるわけではない。大型免許と危険物取扱免許を持つ人を探した。

 宇都宮市の備蓄基地から往復16時間をかけてガソリンを運んだ。21日には物資の倉庫を北隣の相馬市に開設。そこへ市内の業者が取りに行くようにした。ようやく市の生涯学習センターや「道の駅」でカップ麺や米を配ることができた。

 被災者の2次避難も並行して続けた。連日数百人から1000人以上がバスで群馬や新潟に向かった。秘書課の星高光係長は市庁舎からバスを繰り返し見送った。「屋内退避」のはずの住民がなだれを打ってふるさとを離れていく。切なかった。

 市を脱出したのは約7万人の市民のうち5万人を超えた。

検証・大震災:福島原発事故3カ月(6)  続く「風評被害」
 南相馬市の風評は依然、収まらない。地震後数日で市街地のライフラインはおおむね復旧したが、コンビニエンスストア、スーパー、金融機関は閉店を続けた。市外からの物流は回復しない。市外に本社を置く民間企業は社員を退避させ、全国紙やテレビの記者も一時姿を消した。「我々は見捨てられた」。市長と市職員は失望した。

 24日夜、市役所3階の応接室。少しやつれた表情の桜井市長は、カメラに向かって語りかけた。「市民は今、兵糧攻めの状態です。人は助け合ってこそ人なんだと思います。ご支援をお願いします」

 撮影された11分間の訴えは、市長の友人が動画投稿サイト「ユーチューブ」にアップし、英語の字幕とともに全世界に広がった。

 市長は宮沢賢治にあこがれ、岩手大農学部で学んだ。家業の農業に専念した後、近くの産業廃棄物処分場建設計画に反対したのを機に8年前、政界に身を投じる。市議を経て昨年1月、市長に初当選した時には想像もしなかった事態に直面した。市には外国メディアが押し寄せ、のちに米タイム誌が「世界で最も影響力のある100人」の1人に選んだ。

 桜井市長は25日夕、セブン-イレブン・ジャパン本社に電話をかけ、面識のない井阪隆一社長に直接頼んだ。必死だった。「市内の店舗を営業再開させてください」。同社はすぐに応じ、流通経路を工面して26日夜、原町西町店を再開させた。

 星係長は「あれが大きな引き金になった」と振り返る。金融機関や他のコンビニも後に続き、市街に物資が入り始めた。国から常駐の連絡役が市に派遣されたのは、状況が好転し始めた26日になってからだった。

検証・大震災:福島原発事故3カ月(7) たった1本の電話で…
 ◆3月20日午後11時、飯舘村

 ◇たった1本の電話で…「この仕打ち忘れない」
 ◇突然の水摂取制限通告
 飯舘村は震災当日、震度6弱の大きな揺れに見舞われたものの建物に大きな被害はなく、南相馬市などから1300人以上の被災者を一時受け入れた。

 原発からは北西へ28~47キロの内陸部にあり、当時は大半が屋内退避(20~30キロ)圏外。だが、相次ぐ原発の爆発で吹き飛ばされた放射性物質が風に乗り、折からの雪で村に降っていた。それを約6200人の村民や被災者が知るのはしばらくしてからだ。

 3月20日午後11時。文部科学省から飯館村役場への電話はあまりに突然だった。「明日午前7時から全水道の摂取制限をしてほしい」。村にある滝下浄水場から965ベクレルの放射性物質が検出された。大人の暫定規制値(300ベクレル)の3倍、乳児の規制値(100ベクレル)の10倍近くに達していた。

 門馬伸市副村長は耳を疑った。水道が使えない。しかも、あしたからとは。「時間がない」。県の災害対策本部に村民1日分のペットボトルを届けるよう要請し、村民に翌朝、一斉に広報するための人集めやビラ作成に夜通し追われた。

 早朝から職員が総出でペットボトルを各戸に配った。翌日、自衛隊から水を供給され、ようやく落ち着く。

 「国は簡単にできると思っているのか、電話1本で。そんな態度なのか」。門馬副村長は「この仕打ちは忘れない」と憤った。

 のちに「全村避難」をめぐる村の国への不信は、この時生まれた。

 ◇IAEAが勧告
 「水騒動」から10日後の3月30日、追い打ちをかける衝撃的な発表が海外であった。

 国際原子力機関(IAEA)は飯舘村を名指しして、測定の結果、村の土壌汚染がIAEAの避難基準の2倍に相当すると指摘した。

 事実上、日本政府に避難指示圏の見直しを求める勧告だ。前日の29日、世界貿易機関(WTO)の非公式会合で、食品輸入禁止や工業製品まで含めた検査強化に対し、過剰反応をしないよう日本政府が要請した直後だった。

 31日、原子力安全・保安院の平岡英治次長が役場を訪れ、IAEA勧告について菅野典雄村長に「現時点で新たな避難などの措置を取る必要はない」と説明した。

 村長は安心した。ところが同じ日、枝野官房長官は官邸での記者会見で「人体に影響を及ぼす可能性が長期間になりそうなら、退避等を検討しなければならない」と述べた。「国はやはり我々を村から追い出そうとしている。そうなれば村民の仕事はなくなり、生活していけない」。菅野村長は警戒した。

 勧告2日後の4月1日、IAEAは追加測定の結果、避難基準を下回ったと発表したが、菅野村長は「先手」を打つ。妊婦と乳幼児らを村外に退避させることにし、5日に菅首相宛ての「提言書」を作成して送った。

 「さまざまな機関が調査した情報が村に事前の報告・相談なしに一方的に公表されるとともに、単に『数値が高い』ことのみ強調され、『世界の飯舘村』になってしまったことによる村民の不安と心労は計り知れない」。提言書には、全村避難だけは避けたいとの思いがにじんでいた。

 一方、村のEメールボックスには東京や大阪から「避難をのばして村民をモルモットにする気か」と抗議が殺到した。

検証・大震災:福島原発事故3カ月(8) 見知らぬ官僚からの電話
 ◆4月6日

 翌4月6日、内閣府原子力安全委員会が、政府に伝えた防災指針変更の内容を発表する。「年間の累積被ばく放射線量が20ミリシーベルトを超える可能性がある住民に、避難などの措置を講じる」。これまでは10~50ミリシーベルトで屋内退避、50ミリシーベルト以上で避難だったが、基準はより厳しくなった。

 会見した安全委の代谷誠治委員は「防災指針は事故の長期化によって実情に合わなくなった」と説明した。

 このころ、日本の農産物の輸入規制は欧米やアジアだけでなく中東や南米にも広がっていた。菅野村長は「国としてしっかりやっている、と言うために『世界の飯舘』を標的にするつもりだ」と不信感をいっそう募らせた。

 同じ6日。飯舘村の広瀬要人(かなめ)教育長に、文科省の前川喜平総括審議官から電話が入った。「すぐに避難の準備をしたほうがいい」

 面識のない相手からの突然の連絡に、広瀬教育長は戸惑った。「なぜ私に電話をしたんですか」。前川審議官は、鈴木寛副文科相の指示だと答えた。広瀬教育長は「村長に直接言えば、正式な通知になってしまうからだろう」と推測し、避難に向けての政府の「地ならし」と受けとめた。

 同様の電話は同日夜、のちに飯舘村全域とともに「計画的避難区域」に一部が指定される川俣町の神田紀(おさむ)教育長にもあった。「今、官邸サイドでやっているが、これから川俣町の一部が場合によっては避難指示のようなことになる。対応は可能か」。そう尋ねる前川審議官に、神田教育長は「大変なことになる」と反発した。

 「これから官邸に出向いて伝える。この件については町長にもマル秘(秘密)として取り扱ってほしい」。前川審議官が口止めしたことが神田教育長のメモに残されている。

 飯舘村の広瀬教育長は「近く避難区域に指定される」と予感し、すぐに菅野村長に報告した。菅野村長は翌7日に急きょ上京し、官邸で福山哲郎官房副長官に説明を求め、2日前に送付した提言書を直接手渡した。だが、その場で福山副長官は新たな避難区域の指定には明言を避けた。

 ◇議論3時間にも
 4月10日、福山副長官は飯舘村、川俣町の首長2人を訪問する。用件を察した菅野村長は混乱を避けるため、面会場所を報道陣の待ち受ける村役場ではなく、福島市内の県知事公邸に指定した。

 「おおむね1カ月以内に全村民の避難をお願いしたい」。そう切り出す福山副長官に、菅野村長は思いのたけをぶつけた。

 「会社もつぶれる。生活のリスクを少なくしながら避難させないと大変なことになる。もっと柔軟に考えてもらわないと『はい』とは言えない」

 議論は3時間に及んだ。しかし、「全村避難」という政府の方針が変わることはなかった。

検証・大震災:福島原発事故3カ月(9) 「計画的避難」を発表
 ◆4月11日午後4時、官邸

 4月11日、枝野官房長官は、20キロ圏外で新たに避難を要請する「計画的避難区域」の指定を発表した。あわせて20~30キロ圏内で幼稚園や小中学校を休校としながら緊急時に自力で避難できる人は区域内にとどまれる「緊急時避難準備区域」の指定も明らかにした。指定に伴い、20キロ圏内は立ち入りが禁止される「警戒区域」になる。

 飯舘村は全村が「計画的避難区域」の見通しとなった。この日、村役場で開かれた事業者向け説明会。菅野村長は「この(全村避難の)場面がとうとうやってきてしまった。(国に)負けるか分からないが、本気で頑張る」とあいさつした。たとえ全村避難でも村民の生活を崩壊させないよう国に迫る「闘争宣言」だった。

 菅野村長は温厚な人柄と評されるが、決断すると徹底して闘う一面もある。隣接する旧原町市(現南相馬市)などとの合併協議が進んでいた04年、「合併して市になれば中心部以外は取り残されてしまう」として突如、離脱を表明。直後の村長選では合併推進派との激戦を制し、効率化と一線を画す行政を進めた。

 5日後の4月16日、飯舘村を訪れた福山副長官に、菅野村長は三たび相まみえた。その場で菅首相宛てに提出した「要望書」には8項目の柱を並べた。

 焦点は「牛の移動や補償」「工場の操業継続」「帰還のための土壌改良」。翌17日には枝野長官が村役場を訪問する。この間、政府側は村にひそかに約束したと明かす。

 「安全に影響のない限り、(村の提案は)すべてのみます」。村が正式に避難区域に指定されたのは、5日後の22日のことだった。

 政府との激しいやりとりで、村の要望のいくつかは実現した。それでも菅野村長は何度もやりきれなさを感じた。避難先として「ある県には数百戸の部屋がありますから、どうか」と持ちかけられたことがある。

 「部屋が空いていれば、何のこだわりもなく岐阜でも長野でもどこにでも行けというのですか」。村長はさらに続けた。「だから心の通わない政治をしていると言われるんですよ」

 村の計画的避難が始まったのは5月15日。村民は5月末時点で1427人にまで減った。

検証・大震災:福島原発事故3カ月(10止) 連絡メールだけ
 南相馬市は新たな避難区域の設定で4分割されることになった。警戒区域は1万4259人、計画的避難区域は10人、緊急時避難準備区域は市の推計で約4万6000人。指定のない場所には約1万人がいるとみられる。

 いつ指定するかの情報をもたらしたのは、やはり国ではなかった。4月15日、南相馬署から市の災害対策本部に「来週、警戒区域が始まるようだが、どこの道を遮断すればいいのか」と連絡があった。

 対策本部は「福島第1原発事故に伴う警戒区域の設定について」と題するA4判の紙を作成。立ち入りには罰則があることを含めた説明を載せ、該当地区とみられる各戸に職員が配布した。正式な連絡は、枝野官房長官による22日の発表とほぼ同時刻に国の災害対策本部から送られてきたメールだけだった。

 原発事故から1カ月以上たった時期での立ち入り禁止に、住民の反発は大きかった。「なぜこの時期なのか」「これまで入れたのに、どうして」。市役所の窓口では1時間も居続けて抗議し、つかみかかってくる男性もいた。市職員は「総理の命令だから」と繰り返すほかなかった。

 同時に20~30キロ圏内の屋内退避が解除され、屋外活動に制限のない緊急時避難準備区域に変更された。避難していた5万人以上の市民は次々と戻っているが、今も2万人近くが市外に避難する。

 ◇帰郷できる日は
 原発が最初に爆発した3月12日、政府の早い対応で住民が避難した大熊町。その後、官邸が、役場の知らない発表をするたびに役場のコールセンターには町民からの問い合わせ電話が殺到した。

 菅首相と松本健一内閣官房参与が4月13日の会談で、原発周辺地域に「10年、20年住めない」とやり取りしたと報じられると「町も知ってて隠してるのか」「ちゃんと国と連携しろ」と町民から抗議の電話が相次いだ。

 町は今、会津若松市に役場機能を移転し、町民は市内の旅館やホテルに入居する。入居期限は7月末。仮設住宅の建設が遅れれば、行き場を失う人も出かねない。

 ふるさとにはいつ帰れるのか。警戒区域の中で、3キロ圏内に家がある町民は現在も一時帰宅さえ認められていない。


避難した人たちがどんな生活をされているのか?
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