日々

穏やかな日々を

私(岩田健太郎さん)は島根県松江市に3つある進学校の1つに通っていた

2013年01月29日 23時48分39秒 | 
分断より融合、威張るより謙虚に-岩田健太郎・神戸大学感染治療学分野教授に聞く◆Vol.2
物分かりの悪い患者を診る医師になる

2013年1月29日 聞き手・まとめ:島田 昇


2013年に向けた言葉として岩田健太郎氏は「Dilemmaに耐えよ!」と記した。

――ご自身のキャリア形成について教えてください。研修先を医局の外に求め、米国、中国と渡り歩き、亀田総合病院、現在の神戸大学に至っています。

 僕は子どもの頃から、「分断」よりも「融合」を好む傾向がありました。例えば、理系と文系、男性と女性のような分け方ではなく、「分断するのではなく統合する」「違いを見るのではなくて同一性を見る」というところに、直感的に興味を持っていたのです。

 大人になってからこの直感を整理すると、世の中に根本的な違いなどはなく、ただ、「視点が違う」と考えていたのだと思います。例えば、あるお店の料理が美味しいか普通かの評価は、食べた人の見方の問題で、絶対的な違いではない。数字は客観的な違いと受け取られがちですが、内閣支持率が65%あるとして、この数字が高いか低いかは、主観です。さらに内閣支持率が60%になったとして、これを「支持率が低くなった」「支持率に大した変化はない」と考えるのも主観のなせる技と言えるでしょう。西欧諸国の人たちから見れば、日本人と中国人と韓国人の違いなんて、「それほど大した差はない」「一緒みたいなものだ」と感じる人がほとんどでしょう。

 私は島根県松江市に3つある進学校の1つに通っていたのですが、あの頃はまさに受験戦争と呼べるほど偏差値至上主義で、「今回の模試の平均点は市内の他校より良かった」「今回は他校より悪かった」とやっているのを見て、僕ははっきり言って「くだらないな、バカじゃないかこの人たちは」とずっと思っていました。「人口10万人程度の田舎町で平均点を競い合って何になるのか」と。その頃から細かいことを気にすることが卑しいことであるかのように思っていました。そういう細かな違いを執拗に気にする人は、怒りや劣等感、劣等感の裏返しの優越感などを内包させていることが多い。この種の卑しさはさまざまな場所にあふれていて、医療界でもありとあらゆる場面にあって、出身大学の偏差値、開業医と勤務医、博士号の有無など、そういうどうでもいいことで「ああだこうだ」と言っているんです。

 理系とか文系とか、そういう区別がおかしいなと思っていて、ここからは僕自身がバカだったというか「若気の至り」なのですけれど、当時、自然科学も社会科学も両方勉強できるのは医学部だと思い、それで医師の道を志しました。医師という職業に憧れは全くなく、ただ学問がしたいとの理由だけで、当初は基礎医学者になりたいとずっと思っていました。臨床医になるつもりなど、全くありませんでした。それでも医学部に入ってエイズの患者さんと出会って、そのサークルに入るなどしているうちに「ヒューマンなものも大事だ」と感じる萌芽を得たりしましたが、それでも基礎医学者になろうと思い、基礎医学者になるためにできるだけ短時間で臨床医学を学ぶことを考えて、それならばできるだけ厳しく教えてくれるところということで、沖縄県立中部病院を研修先に選びました。おそらく、中部病院史上、最も動機が不純な研修医だったのではないでしょうか(笑)。

 今思えば当然ですが、中部病院は思った以上に研修がしんどくて大変でした。とうとう「これ以上は耐えられない」と思っていた時に、米国の臨床留学プログラムがあることを知って渡米することに決めました。「米国の最新医学を学ぶ」だったり、「日本の医学はこのままでは駄目だ」だったりと、ポジティブかネガティブかいずれかの強烈なモチベーションに後押しされて渡米する若い医師がほとんどの中で、「とりあえず、ここにいたくないから米国だろうがどこでもいいから逃げ出したい」という気持ちで米国留学を決めた医師もまた、少ないのではないでしょうか。本当に若気の至りでした。

 米国をグローバルスタンダードと見てどっぷりと米国に浸かり、米国に対してものすごい大きな愛情か、その裏返しの大きな憎悪を抱く研修医がほとんどの中で、私は「米国は世界の異端児だ」と斜めに見て、米国の医療に接してきました。今でも世界の異端児だと思っていますよ、米国は。それでも5年、「米国とその他の国」というような区別をすることなく、米国の医療のいいところも悪いところも理解しながら感染症を学んできました。学生の時から、「世界のどこにいっても通用する人間になりたい」との思いが強かったため、感染症は先進国でも途上国でも、都会でも田舎でも役に立つ分野で、老いも若きも男も女も感染症になります。内科系、外科系、メジャー、マイナー、関係ありません。そういう「横の広がり」があるんです、感染症には。また、小さいところではウイルス学、分子生物学みたいなのから、大きなところでは公衆衛生、哲学、倫理学、政治にまで感染症は関与する。そういう「縦の広がり」もあります。感染症屋はある意味、ジェネラリスト以上にジェネラルな視点が必要です。こういうのが、まさに私が興味を持つ融合に合致する分野だったのです。

米国は世界の異端児
良し悪しを理解しながら学んだ

――日本に戻ってからはどうでしたか。

 当初、日本の医療は楽しそうではなく、「帰りたくないな」という思いが強かった。現場の医師からは不平不満しか聞こえてこないし、労働環境もよくなく、つらい上に楽しくなさそうという印象だった。そんな中でたまたま亀田総合病院からお声がけいただいたのですが、亀田は例外で、楽しそうないい病院の雰囲気があったので帰国することに決めました。

――指導医としての哲学、感染症への情熱などをお聞きすると、医学生時代の医師や医療に対する考え方とかなり落差があると思います。何か考え方が変わるきっかけなどがあったのですか。

 行き詰まったのです、「これじゃあ駄目だ」と。基礎医学者になろうと思っていたけれど、ズルズルと臨床をやっていて、米国で臨床をやっていると、「自分は米国の最先端で臨床をやっている」、「自分はこれだけ立派なんだ」というゆがんだ自負心が湧いていた時期があったのです。しかし、時の経過と経験の積み重ねとともに、そういうものが全く役に立たないという気づきに至りました。よく考えれば、米国にいることで医師として特別なことができるわけではないのです。それはただのおごりだったため、行き詰まったのです。そのときは人間関係もうまくいかなくなりました。

 米国では肩肘張って生き馬の目を射抜く覚悟でやっていて、さまざまな議論に参加して、米国人の真似事で一生懸命になって議論の中で主義主張をしたものです。それが米国的であると信じて。でも、そんなもの、全くアメリカ的でも何でもない。米国人だろうが日本人だろうが、本当に頭のいい奴は、そういう僕らみたいな凡人がゴチャゴチャ議論していると、後ろで黙って議論に加わらず聞いていて、一番大事なところを最後にズバっと言って去っていく感じなのですよ。

 行き詰って、患者を救うとはどういうことなのかも分からなくなった。例えば、生存率が5年上がったとして、それが何になるのか。患者はもっといろんなことに悩んでいて、お金に困っている患者に医者がお金を貸すわけにもいかないし、孤独に悩む患者の友だちになってあげることもできない。同じようにパートナーを失った人、仕事を失った人など、医療なんて、人の悩みのほんの一部でしかない。ですから、実は医者ができることはほんの少しのことで、そういう己の無力さを認識し、謙虚にならないといけないと思ったのです。

――謙虚になったことで、きちんとした哲学が芽生えたと。

 「きちんとした哲学」というのもよく分かりませんが、医師って、威張りすぎなのです。自分たちのお陰で世間が成り立っていると考えがちですが、24時間、医療や病気のことばかり考えている人というのは少ないですし、もしそういう人がいるとしたら、それはそれで不健全ですよ。そういう「病気のことばかり考えている」患者さんはどことなく不幸な顔をしています。そういう患者さんが、少しでも医療や病気のことを考えなくてもいいようにすることが僕らの本来の仕事であるのに、「もっと患者は勉強して賢い患者になれ」などと言っている。つまり、もっと一日のうちに病気のことを考えろと脅迫しているわけです。しかし、医師は自分たちが「脅迫している」だなんて考えない。まじめな医師ほどそうは考えない。でも、僕らは知らず知らず、自分たち医師を中心に何でも考えがちになっているのです。医療の世界は広大なるグレーゾーンの世界です。押しても駄目だし、引いても駄目だし、こうしたジレンマは本当に難しいとは思うのですが、やはり、自分たちの論理だけで考えてはいけないと思います。細々と謙虚にやっていくことが大事です。

人の幸福を支援するのが医師
優先すべきは正しさではない

 多くの真面目な医者は、正しさを振りかざし、例えば、タバコは体に良くないと言って、まるで喫煙者を人生の落伍者のように追い込んでいく。正しさを振りかざすことで人を不幸にしてしまっている。これでは、その正しさは本末転倒になってしまう。人間の幸福のためにちょっとでもお手伝いをすることが僕らの本来の仕事なのに。「他人の幸福」よりも、「自分たちの正しさ」を優先してしまうのです。物分かりのいい患者なんて、誰が診ても同じですからね。何もかも医師の論理で考えることなく、脅迫することなしに、「物分かりの悪い患者」に対して、自分の頭で考えて、どう診ていくのかを悩み、解決策を導き出すこと――。それこそが、医師の仕事だと僕は思いたいのです。

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Dr.岩田健太郎さん

2013年01月29日 23時09分11秒 | 
10人の「医師作家」が語る2013年の医療

「指導にメリットない」なんて心が貧しい-岩田健太郎・神戸大学感染治療学分野教授に聞く◆Vol.1
『スーパー指導術』の極意は贈与の本質の理解

2013年1月25日  聞き手 島田昇

 神戸大学都市安全研究センター感染症リスクコミュニケーション分野教授で、同大大学院医学研究科教授(微生物感染症学講座感染治療学分野)、同大学医学部附属病院感染症内科診療科長兼国際診療部長の岩田健太郎氏は昨年、指導医が研修医に教えるため、また、研修医が指導医から教わることを想定した指南書『Dr.岩田健太郎のスーパー指導術 ~ 劇的に効果が出る“教えるコツ"“教わるコツ"』を上梓した。臨床研修の場で「指導医にメリットがない」と指摘する声に対し、岩田氏は「指導にメリットがないなんて、もったいない。指導にはメリットがたくさん。贈与の精神の本質を理解していない」と一蹴する。岩田氏が考える贈与の精神、医師の教育について聞いた(2012年12月28日にインタビュー。計2回の連載)。


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『スーパー指導術』
岩田健太郎氏に聞く
Vol.1◆「指導にメリットない」なんて心が貧しい
Vol.2◆分断より融合、威張るより謙虚に

「指導にメリットがないなんて、もったいない。指導にはメリットがたくさん。贈与の精神の本質を理解していない」と語る岩田健太郎氏

――執筆の経緯について教えてください。

 亀田総合病院に勤務していた頃、「コーチング」に興味を持ち始め、半年間の研修を受けてビジネス・コーチの資格を取得しました。その後、コーチングの技術を臨床医学に活用する内容の連載を雑誌に掲載し、DVDも作りました。連載が終わってからしばらく経ち、連載の内容をまとめて本にしたいと思って内容を見直したのですが、一言で言うとバタ臭くて、「この内容ではダメだな」と思うようになっていました。それで当時の原稿をかなり書き直し、まとめたのが本書になります。

――どうしてダメだと思ったのですか。

 教育も流行り廃りがあって、「ゆとり」か「詰め込み」という二元論的な考え方があるけれど、二者択一ではなく、「ゆとり」も「詰め込み」もどちらも大事なことです。例えば、適度なストレスは人生に張りをもたらすけれど、ストレスばかりでは参ってしまう。こんな当たり前のことすら吟味できていないと感じることが、世の中には多々見受けられますが、僕もコーチングについては当初、自分で十分に吟味できていなかった。「正しい」と「間違っている」という二元論で議論しがちで、まあ、どちらかというとアメリカチックで、だからバタ臭く感じたのですね。

 コーチングを現場で活用しながら自分で吟味していくと、使えるところと使えないところが見えてくる。どういう時にコーチングを使うのか、その押し引きの加減やタイミングも大切です。その辺りを十分に吟味して分かってきたことは、米国から入ってきたコーチングというツールは、日本で昔からやっていることだったりすることも多いんです。

 例えば、コーチングの有名なコンセプトの1つに「ペーシング」がありますが、そもそも日本人は相手の顔色や出方を伺いながらこちらの出方を決めていくという傾向があります。米国人のように、相手よりも自分の言動を優先するというスタイルは、日本人は伝統的に得意ではない。その他にもテンポのいい会話や相手の発言の繰り返しによる確認なども、日本の古典落語や漫才の世界で確認できます。コーチングは米国から輸入してきた目新しい概念でもなく、日本人がそのまま着こなすべきものでもないと分かってきました。つまり、米国流を意識して、肩肘張りすぎていたのです。

――米国流を意識し、権威に感じる人は多いと思います。

 偉い人が言っているから正しい、米国流だから取り入れるべきと考えることは好ましくないと思います。そういう絶対的なものなどあるはずありませんし。特に、教育はトライ・アンド・エラーでしかありません。「間違えてはならない」との無謬性に捕らわれすぎなのか、何かと言えば、偉い人が言うことを引用したり、米国ではスタンダートだと語ったり、ある意味で安易に権威付けする人を多々見かけます。そういう人は大抵、そもそも間違いがあったとしても権威を傘に間違いを認めようとしないから、事実をねじ曲げ、おかしな方向に向かってしまう。そういう無謬性の行き着く先にあるのは、ちょっと臨床研修の場面とは離れますが、教育現場におけるいじめの隠蔽でしょう。「いじめは良くない」というスローガンは100%正しいけれど、現実にいじめはあります。その現実と向き合い、トライ・アンド・エラーすべきところに、肩肘張って凝り固まった悪良識を振りかざすから、「いじめはあってはならない→ないはずだ→ない」という歪んだロジックの変遷がおきます。いじめの隠蔽問題が発生する土壌が醸成されてしまうのです。

 僕が本の中で言いたかったのは、偉い人が言っているからといってただそれを真似ねるだけでは駄目で、自分の頭で吟味すべきだということです。指導医なら教える研修医を、研修医なら教わる指導医の人柄をきちんと見て、その場のシチュエーションや文脈を分析し、自分の頭を悩ませることでしか、きちんとした学びはできないということを言っています。そういう複雑な思考は自分の頭で考えざるを得ないし、本書で書かれていることをそのまままねていては駄目だということを、本書を通じて言っています。

偉人の言動をまねるだけでは駄目
自分で吟味しないと学びはない

――若い医師らの人気が高いと聞いていますが、そういう「自分の頭で吟味せよ」というメッセージなどが受け入れられているのでしょうか。

 そういうことは考えたこともないですね、人気を得ようと考えた時点で人気は得られないと思うし、そもそも若い医師からの人気などに興味もないし、媚を売るつもりもない。学生や研修医に対しても、叱るべきところは全力で叱っていて、「こんな言い方すると嫌われるんじゃないか」とは考えるべきではないと思っています。

 叱ることはものすごいエネルギーがいることですが、そこでサボってしまってはいけません。叱ることをサボることは簡単で、研修医なんて短期間の付き合いなのだから、叱るべき場面を容易に「見なかったこと」にできます。「愛情の反対は無関心」という言葉はまさにその通りだと思いますが、見なかったことにする、無視するということは、研修医に対して一番残酷な仕打ちだと思いますね。駄目な研修医ほどきちんと教えないといけない。「自分の科に来ない」という理由で研修医を無視する指導医も中にはいるそうですが、誰のための指導医なのかを、考え直さなければならないでしょう。それが指導医の利益のための指導であったら、なお最悪です。指導医は、研修医が成長するための一種のツールとして存在するのですから。大事なことは、研修医が10年後、20年後にどんな医師になっているかで、研修中に指導医の言うことをよく聞く(けれども自分で考えたり判断できない)使いっ走りみたいな研修医が望ましいのではないのです。

――指導医にメリットがないとの指摘もあります。

 そんなことはありません。「指導」とは贈り物なので。贈り物をすること自体にメリットがあるのです。クリスマスプレゼントって、もらうよりもあげる方が楽しくないですか。自分が贈り物をしたい人のために、あれこれ考えて、それを喜んでもらえると、うれしいじゃないですか。贈与というのは、もらった人ではなく、贈った人がリッチになるものなのです。教育とはまさに贈与そのもので、与えれば与えるほどリッチになる。与えるために思考し、勉強し、それを何度も繰り返すことで、自身の血肉になる。自分自身を伸ばすという意味だけで見ても、贈与は人をとてもリッチにします。

 確かに、指導医講習会などをすると、「メリットがない」と指摘する人もいます。しかし、そういう人は全く贈与の「意味」をご理解されていないのだと思います。教育の一番リッチな部分を取りこぼしている。例えて言うと、お酒の味を楽しまずに、一気飲みするようなものです。全くもったいない話です。

――制度や仕組みでメリットを担保する必要はないでしょうか。

 そういう視点も必要でしょう。ただ、制度で全てが変わるわけではありません。そんなことを考えるのは官僚だけで十分です。例えば、16時間やらなければならない指導医講習会について「苦痛だ」「苦行だ」「軟禁だ」などと散々に悪口を言われています。制度が提供できるのはそういうものです。ちなみに厚生労働省は講習会の内容やデリバリーの仕方にはほとんど無頓着です。そこは僕らが工夫して「面白く」するのです。「神戸大の指導医講習会に出て良かった!」と言われるために、どれだけ楽しいものにできるかを考える。楽しさは伝染するので、楽しい講習会をやれば、指導医も楽しいと思い、そんな指導医に教わる研修医も楽しいと思えるようになります。教育とは、伝染するものですから。

 障壁を取っ払うことも必要ですね。僕がやっているのは、必要のない仕事を減らすことです。時間的にも体力的にも余裕がない人が指導をするのは難しいので、要らない書類や会議を減らすなどして、できる限り教えるための時間を捻出しています。

 もちろん、金銭的なインセンティブを付けてもいいとは思います。ただ、金銭的なインセンティブが人間を動かす動機になるという心理学的なデータは乏しいのです。むしろ、金銭が発生すると、金銭が出ないと何もしないという話になってしまう。ですから、そうした二次的な動機よりも、教えること、そのために勉強するという一次的な楽しさを伝えていかないと、本質的な問題解決にはなりません。お金はその後についてくる「おまけ」みたいなものです。例えば、日本人の子どもの勉強時間が少ないのは、「勉強をするといい大学に行ける」「勉強をするといい会社に入れる」と二次的な動機を一番に掲げて教育をしてきたことの帰結だと思います。長引く不況でいい大学に行っても就職も確定されなければ、勉強の意欲はすぐになくなってしまいます。二次的な利得ばかり考えて親が先生が「勉強しろ」というからそうなるのです。「勉強って楽しいだろ」という教え手と楽しい、という学習者の関係が最も大事なのです。

 医療も問題の構造は同じで、一次的なことは患者を救うことです。それが二次的な金銭のことにばかりに目が行くと、「医者になれば金持ちになれる」というところばかりに目が行き、「効率良く患者をさばくにはどうすればいいのか」が優先されてしまう。医療と教育はリンクしているところもあって、贈与の精神を持って、一次的な意義を第一に考えて行動できるようにならないと、二次的な意義にばかり目が行き、精神的に貧しくなってしまい、精神的に貧しい人たちばかりだから楽しくないし、楽しくないことが患者も含めて関係している人たちに伝染していくのです。金銭的なものを否定するわけではないけれど、あくまで主従が逆転することがあってはいけません。

――2013年、医師の教育について何を注目していますか。

 もっと楽しくやれるといいと思います。例えば、逆境って楽しいじゃないですか。ひっくり返す楽しみがあるわけですから。開拓者魂と呼んでもいいですが、問題がたくさんあってそれを良くするというのは、自分たちのよくしたいという魂を鼓舞するのですから、いいことだと思うのです。

 問題点があることが問題ではないと思う。大事なことは、問題点を直視して、認識して、分析して、それに立ち向かおうと思わないことが一番の問題なのです。そりゃ、大学病院は臨床では評判がよろしくないですよ。でも、「うちは大学病院ですからできないのですよね」とそこで立ち止まり、思考停止になってしまうようなところが、一番よくないのです。視線を低くして、足元ばかり見て、病床稼働率がどうのこうのとやるのではなくて、「こういう医療を提供したい」「こういう病院にしたい」というビッグピクチャーが必要だと思うのです。そういうことを言うと、必ず「夢物語だ」と批判する人が出てくるのですが、いいじゃないですか、夢物語を語ったって。できないと思った時点で、人はできなくなってしまう。「できるところから始めよう」と考えた時点で、そこに新しい何かを生み出す冒険はなくなり、冒険ではないから魂を鼓舞する冒険心が削がれ、面白くなく、楽しくなく、それが関係者に伝染してしまう。それが一番の問題点です。

――先生のビッグピクチャーは何ですか。

 神戸大学病院を日本で一番いい病院にしたい。世界のどんな人が見ても、「この病院はいい病院だ」と言えるようにすることが、僕の今のミッションだと思っています。目の前にある今は、ビッグピクチャーに向かっている今だからこそ、その今を一生懸命に生きようと思えるのです。

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「たばこ吸いたい」脳の仕組み解明

2013年01月29日 22時33分58秒 | タバコ
「たばこ吸いたい」脳の仕組み解明…理研
読売新聞 1月29日(火) 配信


 「たばこを吸いたい」という欲求は、脳の二つの部位が連携して生じることを、理化学研究所分子イメージング科学研究センター(神戸市)などが突き止め、28日発表した。米科学アカデミー紀要(電子版)に近く掲載される。禁煙や薬物依存の新しい治療法開発などにつながりそうだ。

 たばこを吸う習慣がある旅客機の客室乗務員は、着陸が近付くと、飛行時間と無関係に喫煙の欲求が強まることが知られていたが、こうした現象が、脳のどのような仕組みで起きるのかは不明だった。

 同センターの林拓也・副チームリーダーらは、喫煙者10人に、▽すぐ喫煙できる▽4時間喫煙できない--という条件で他人が喫煙している映像を見せ、吸いたい気持ちの強さを点数化してもらった。さらに脳の活動の様子を、機能的磁気共鳴画像装置(fMRI)で画像化して解析した。

 その結果、喫煙の欲求が強まると、こめかみの奥にある「眼窩(がんか)前頭皮質」が活性化。すぐ喫煙できる条件では、左前頭部にある「背外側前頭前野」も活性化したが、この部位に磁気を当てて働きを抑えると、こめかみの奥の活動も下がり、喫煙の欲求が抑えられたという。

 林さんは「左前頭部で『吸えそうだ』という状況判断を行い、こめかみの奥で『吸いたい』という欲求が湧き起こるのだろう。ニコチン依存の強さの評価や、他の薬物依存の研究にも役立つだろう」と話している。

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育児はこの年でも思考錯誤

2013年01月29日 16時10分19秒 | 
庭の水仙が1個開きました。
よい香りです。
でも
まだまだ寒いので他は硬い蕾のまま
追肥等やりたいのですが・・・・・・・・
二の足踏んでいます。

孫のずぼん2枚のほころびと上着のボタンつけをして
やや肩こりで、今休憩中。

テレビで子どもたちのいじめの報道をみると
これからの孫たちのことが心配になります。
1歳児と4歳児は結構ハデバデしい喧嘩をします。

この子たちの腕足を使った喧嘩は本能のようにも思え
特に1歳児の怒り方は強いです。
4歳児が急におもちゃをとったりするとガイに怒ります。
4歳児は邪魔された経験はなく、自分の思い通りの遊びをしていたので
妹の扱いも分からないですね。
これから上手に遊べるように声をかけることも必要とも思いますが
あまり、制止ばかりもいけませんし
なるべく見守る状態を維持しなくてはとも思いますが・・・・・・
難しいです。
私婆が「嬉しい時」にちょっとたたいたりつついたりすると
4歳児は不快な表情をするので安易にしないように気を使っています。
でも、タッチといって手とたたき合ったり
ギュッといって抱きしめたりはとてもよろこびます。

育児はまるで初体験のように感じる私ですが
みなそれぞれ個性が違うからでしょうか?

我が子の時はどうしてたんだろうと思ったり
思考錯誤です。
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