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「長崎の鐘」永井隆博士の「謎」だった長崎行き決意した理由…未発表原稿で回想

2023年09月16日 22時14分52秒 | 原子力

「長崎の鐘」永井隆博士の「謎」だった長崎行き決意した理由…未発表原稿で回想

 2023年9月15日 (金)配信読売新聞
 

 島根出身の被爆医師・永井隆博士(1908~51年)は戦前、なぜ長崎行きを決意したのか――。「長崎の鐘」など多くの著書を残した永井がいきさつを書いた未発表の原稿が見つかり、研究者の間でも謎とされてきた過去の一端が明らかになった。永井は、随筆などを通じて抱いた長崎へのあこがれや、佐賀で暮らした父親の影響を挙げており、「私の人生行路のきまった瞬間だった」と回想している。(坂口祐治)

 永井は、原爆で自らも大けがを負いながら、救護隊を率いて負傷者の治療に奔走。1949年1月に出版された「長崎の鐘」や、「この子を残して」など多くの著作を通じて被爆の実相や平和への思いを伝え、復興途上にあった長崎市民の精神的な支柱の一つとなった。ただ、永井が、なぜ縁もゆかりもない長崎に来たのかは分かっていなかった。

 自筆原稿は400字詰め原稿用紙で約50枚。永井が一時期、理科教師をしていた神学校関係者から、永井の孫で長崎市永井隆記念館の永井徳三郎館長(57)が預かっていた。精査の結果、これまで不明だった長崎に来た理由があるのを発見し、永井を顕彰するNPO法人「長崎 如己(にょこ)の会」会報誌の号外として一部を公開した。

 原稿は「大学へ進むに 当たって私は長崎を選んだ」で始まる。その理由として「雪国に育った者は南の国へ移りたがるものだが、そのころはキリシタンもの、南蛮もの、紅毛ものと呼ばれる、長崎についての随筆や研究がさかんで(中略)おのずから長崎をあこがれる気が 起こったのであろう」と分析していた。

 また、「肥前の国の美しさを父はたびたび私に語った」とも記され、一時佐賀で暮らしていた開業医の父・ 寛 さんの影響も挙げていた。永井は1928年、長崎医科大(現・長崎大医学部)に入学。卒業後は大学で放射線療法の研究に取り組んだ。その後、従軍先の中国で読んだカトリックの教義を記した本に感銘を受け、帰国後に改宗した。

 

 徳三郎館長は「運命を決定づけた長崎行きについて、飾らず、率直に語っているのが印象的だ」と話している。

 永井作品を研究している長崎外国語大の小西哲郎教授(56)(キリスト教学)は「永井は長崎に移住しなければ、カトリックに改宗することも、被爆することもなかった。そうであれば、今日の永井像はなかったはずで、運命の転機となった移住に言及した原稿が発見された意義は大きい」と指摘している。

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