孫・・・
2015-07-06 | 日記
大雨が降ってどこもここも洗われた。すっきりさっぱり。
ぼんやりと窓の外を眺めていたら 家の前の大きなニセアカシアや栗の木が
上下左右にゆさゆさと身振り手振り軽やかに まるで本当に話をしているように動き出した。
(ひさしぶりだな。。)前はよくこんな場面に遭遇してた。
最近は人間社会のことに夢中でみていなかった。。。。
昨日の午後 畑で草取りしていると、スイスの娘からケータイに電話がかかって来た。
ケイタイの小さな画面ににこにこした孫の顔がうつった。日中は30度を超える暑さらしく、
娘は床に転がってごろごろしながら話している。孫も隣に転がっている。
ほらほら、きゅうりだよ!ピーマン!トマト!と小さな孫にハウスの中の野菜を見せるために動き回る。
わかっているのかいないのか、ハイハイを始めた孫がこちらに向かって笑いながら突進してくる。かわいい!!
産まれる前ならあんなに神経質になって「ケータイの電磁波に気を付けなさいよ!」と娘にくどくどくどくど言っていた。
しかし、たまにこうして電話が来ると、そんな事はぶっとっぶ。向こう向いてたら「こっち向いてー」と言ったりする。
そんなばあさんの弱点をついて 「母さん、ちょっとナオト見ててくれる~ 洗濯してくるから、、」 などと用を言いつかる。
たとえば、家で豆のごみ取りをしながら、目の前にケータイを置き 画面の中の孫をあやす。
娘がベビーチェアに座らせた孫がうつるようにケイタイを置いて、ばあさんに子守をさせるのだ。それにうっかり乗る。
(あのさ、暇じゃあないんだ。)と言いたいが、話しかければ笑ったりする孫は可愛くてかわいくて、豆なんかどうでもよくなる。
自分の子供が生まれた時、初めて 自分以外の存在の為に生きていく、という自分の気持ちに出会った。
そうして、子供が自分を離れて、もう自分の役割が終わった、という解放と安堵。いつ死んでもいい気持ちにも出会った。
なのに、孫という存在がまた自分を「生きていく」という気持ちにさせてくれる。
オレオレさぎにおかねをふりこむおばあさん。ナケナシノものを出して惜しくない愛する存在を持つ幸せものだ。
その存在の為に、金があれば金を出す。ババに「ここ一番!」の出番をくれるお前さんは もしやサギ神社の大神様かい?
どこかの国では『どろぼーに遭ったら赤飯を炊いて祝え』というコトワザがあるらしい。。。
子も孫も、自分が生きるために不可欠な「愛」というエネルギーそのものだった。。。
ああ、そうなっていたのか!と 自分がなぜ今まで生きてこれたのかということが今更ながら納得できた。
ぼんやりと窓の外を眺めていたら 家の前の大きなニセアカシアや栗の木が
上下左右にゆさゆさと身振り手振り軽やかに まるで本当に話をしているように動き出した。
(ひさしぶりだな。。)前はよくこんな場面に遭遇してた。
最近は人間社会のことに夢中でみていなかった。。。。
昨日の午後 畑で草取りしていると、スイスの娘からケータイに電話がかかって来た。
ケイタイの小さな画面ににこにこした孫の顔がうつった。日中は30度を超える暑さらしく、
娘は床に転がってごろごろしながら話している。孫も隣に転がっている。
ほらほら、きゅうりだよ!ピーマン!トマト!と小さな孫にハウスの中の野菜を見せるために動き回る。
わかっているのかいないのか、ハイハイを始めた孫がこちらに向かって笑いながら突進してくる。かわいい!!
産まれる前ならあんなに神経質になって「ケータイの電磁波に気を付けなさいよ!」と娘にくどくどくどくど言っていた。
しかし、たまにこうして電話が来ると、そんな事はぶっとっぶ。向こう向いてたら「こっち向いてー」と言ったりする。
そんなばあさんの弱点をついて 「母さん、ちょっとナオト見ててくれる~ 洗濯してくるから、、」 などと用を言いつかる。
たとえば、家で豆のごみ取りをしながら、目の前にケータイを置き 画面の中の孫をあやす。
娘がベビーチェアに座らせた孫がうつるようにケイタイを置いて、ばあさんに子守をさせるのだ。それにうっかり乗る。
(あのさ、暇じゃあないんだ。)と言いたいが、話しかければ笑ったりする孫は可愛くてかわいくて、豆なんかどうでもよくなる。
自分の子供が生まれた時、初めて 自分以外の存在の為に生きていく、という自分の気持ちに出会った。
そうして、子供が自分を離れて、もう自分の役割が終わった、という解放と安堵。いつ死んでもいい気持ちにも出会った。
なのに、孫という存在がまた自分を「生きていく」という気持ちにさせてくれる。
オレオレさぎにおかねをふりこむおばあさん。ナケナシノものを出して惜しくない愛する存在を持つ幸せものだ。
その存在の為に、金があれば金を出す。ババに「ここ一番!」の出番をくれるお前さんは もしやサギ神社の大神様かい?
どこかの国では『どろぼーに遭ったら赤飯を炊いて祝え』というコトワザがあるらしい。。。
子も孫も、自分が生きるために不可欠な「愛」というエネルギーそのものだった。。。
ああ、そうなっていたのか!と 自分がなぜ今まで生きてこれたのかということが今更ながら納得できた。