空いたダンボール箱とプラスチックゴミ
僕の実家は道路拡幅の影響を受けて取り壊される運命にあり、 住んで居た弟は借家生活を始めて早や3年は過ぎた。 その実家の有った地域は農村地帯に囲まれた町場を形成していて、 医者は歯医者を含めて3軒、 米屋、魚屋、駄菓子屋、豆腐屋、パン屋、酒屋、自転車屋、履物屋、氷屋、学用品店、薬局、「考えてみると生活に必要なお店は一通り揃って居たんだなあ」と今更ながら感心する。 店を持たない住人では大工、桶屋など手に職を持ち、 それらの人々も暮らしを支える側にいた。 当然の事ながら、 田畑を持ち専業で農家をやっている家も少数だがあった。
そんな時代、 買い物の際には買い物袋とか買い物籠の持参が当然で、 味噌や塩等を買う時には丼を持って行き、 量り売りして貰って居た。 近くの豆腐屋さんは店で豆腐の製造をしていて、 適当なサイズの皿を持ってそれに乗せてもらい持ち帰ったのです。
そして今の世、 買い物はほとんどが大規模なスーパーマーケットで済ます様になってしまいました。 そこの店頭に並ぶ商品の大半は遠く離れた工場で生産され、個別に包装まで済んだ商品が大半となっており、 店内で調理される食品の多くもプラスチックのトレイに載せられ、 更にラップでくるまれて店頭に並べられている。
そんなだから、 近頃環境対策としてプラスチックの買い物袋の有料化が実施され、 「プラスチックによる環境汚染を軽減する取り組み」と言われても、どこか尻抜け感が否めない。
駄菓子屋で売っていた品物だってある時期迄は量り売り、 包装は紙袋、 そんな紙製品は最初の目的が済んだ後には、 炊事の時のかまどの焚付として各家庭で処分されていた。 もちろん大手の菓子メーカーのキャラメルなんかもう少しキチントした包装で売られていたけれど、 大半は紙系の素材だった様な記憶がある。 あの時代、日本は貧乏で、プラスチック素材となる原油の輸入が今ほど多量に気軽に出来なかったから、 国内にある素材で紙製品を作り、使用するしか無かったからですかね?
ヤナバ生活がもうすぐ終わる今、 片付けの対象として食品トレイや包装に使われたラップ類の量の多さを目の前にして、 ついこの様な記事を書いてしまいました。