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ジョギングはシャンパンの味

ジョギング、写真、革クラフト、木工、パンつくり、日本の古代史などを趣味にして楽しんでいます。

大学の先生は知識は豊富だが、・・

2011年07月07日 07時27分00秒 | エッセイ

・・・原発の事故調査委員会の委員長に元東大教授がなられて国を左右する原子力の行方に影響を持たれるようだが。

   私も機械工学を学んだ人間としては先生の高名はよくしっていて、H先生の件について、特に意義を挟むものではなはないのです。

   一般論ですが、長く企業で働いるなかで、産学共同で仕事をしていく経験もあり、大学の先生の仕事ぶり、人間性などを見てきて、ある特定の個人に対してだけでなく、概して、大学の先生の持っている高い知識で、社会の行方を左右する高度の判断を要求される立場にある時の危なさを感じる。

  話は変わるが、民間会社には、世間で、その会社の知名度を上げるために、多くの大学の教授が顧問やら、技術指導と称して民間会社に現れる。
  これらの先生は、招かれる意味を分かっていて、高額の報酬を受け取る。
  招いた会社では、先生の学問的知識が有用であることは少ない例を除いて、あまりみかけない。
  もし、数すくない例を除いて、考えられる実益があるとしたら、業界の人脈がその先生の人脈と関係があるとか、民間の技術者が名誉として、学界の受賞を受ける時に、学会に顔が効く先生に受賞の斡旋をやっていただく事くらいかと思う。

  今の新聞を賑わしている、各種委員会や、参与などで大学の教授が採用されるのは、その理由を考えれば、私の個人的見解ではあるが、その委員会の判断に問題があった時の有識者を入れていたという言い訳のためくらいでしか思いつかない。

  なぜ大学の先生は高い学識があるのに、社会に問題が発生した時に、役に立たないと考えるのか。

  それは、大学の先生になるプロセスによる問題があるように思う。
  基礎学問分野は除くとして、実学分野の大学の先生は一度現場で実務を体験して苦労して、その学問の持つ意味を社会の仕組みの中で理解するプロセスを体験した人間が本来必要なのであるが、一度社会に出た人は、一般的にはそのままでは、先生にはなれないシステムになっている。
  だから、実学の経験のない人が、大学を卒業したまま大学に残って、学問だけを、判断の材料にする有識者として社会に現れるのである。

  したがって、大学の先生が必要とされ、活躍されるのは学問上の見解のみが必要なときだけにしていただきたいものである。

  こう書いてきましたが、私は大学の先生の人格を否定するものではありません、大多数の先生は高い専門分野の知識と見識と教育者としての信念を持っておられる人が多いのも事実です。

コメント
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