・・・父は根っからの大阪の商売人でした。
私は、その父から、子供のころから、人としての色々な考え方を聞いて育ちました。
その中の一つに、「ケチと始末は違う」云う言葉です。
私が育った家は日常生活は質素でした。
父は「大阪の商売人は始末をするが、ケチはしない」と、 つまり、始末と云うのは、はじめと終わりの帳尻があっているのが始末で、ケチは終わりのないものだと云っていました。
だから、両親の生活を見ていて、感じたのは、普段の生活は質素にして、何をさておいても、いざと云う時に備える、と云うのが、生活の柱だったような気がします。
目的は商売のチャンスを活かすことが大事なので、商売チャンスがいつ来ても、勝負できるように金をためていると云うのが父の言い分でした。
しかし、私も成人し家族が独立し自分たちだけの生活になって、両親が、余裕が出来てからの生きざまを見ていると、自分のことはほとんど金を使わないが、親戚、知人との付き合い、知り合いの困った人の援助、とかには思い切った金を使っていたようです。
それが父の人生の金銭の始末の実践だったと云う事です。
金が無いと商売人は金儲けは出来ないから、常々、勝負の為に自分の生活を質素にして、そして、努力して自分を鍛える、と云うのが彼の生き方でした。
残念ながら私は商売の道には進まず、サラリーマンの社会の入りましたが、常々、いざと云う時のために、実力を貯めて勝負の時に、その貯め込んだ知識や、技能で勝負すると云うのは、基本、私と父とは、考え方は同じだったような気がします。
インタネットを調べると、もともと浪花の商人は「汚く稼いで綺麗に使う」というポリシーがあり、ただのケチとは意味が違うんだそうです。
中でも船場の商人は浄土真宗の信徒で、御堂筋の「御堂」の周辺に好んで住み、店を構えた経緯があり、死ぬほど一所懸命働いて稼いだ大切なお金を、世のため、人のため、仏さんのため、いざとなったら、綺麗さっぱり、惜しげもなく使うということだそうです。