・・・相変わらず古代史の本を読んでいる。
上の図に記入された国々は、弥生時代末期から古墳時代前期において、日本列島のなかで、栄えていた場所です。
単純に考えると、北関東の奥深い場所の豪族と奈良盆地のヤマト王権が何故つながったのか不思議です。
私も、大きな疑問を持ったので、色々と本を読んで勉強しました。
最近は考古学が盛んで、色々な事が遺跡からわかってきているようで、関連の新しい事項を知ることはとても面白いです。
青字で書いてある場所は弥生後期の邪馬台国の時代には何らかの交流ルートがあったと思われます。
しかし、毛野は榛名山系の山麓に稲作が伝わり、自然感慨で水田があったらしいことは判っているが、大したものでなかった。
しかし、弥生末期に突然、人跡未踏の平野部に尾張、美濃の影響を伴った土器と弥生周溝墓が出現する。
これが発展して、古墳時代の全国的に見ても、大規模な古墳が営まれるように発展していく。
太田天神山古墳(群馬県太田市にある東日本最大の200メートルを超す五世紀の前方後円墳)
近畿のヤマト王権の文化がどう伝わったかを調べた結果を下の図で述べます。
近畿のヤマト王権⇔伊勢湾岸の豪族⇔東海東(沼津)⇔関東湾岸地区
⇕ ⇙
松本一帯 ⇔ 毛野
考古学的遺物からは、弥生後期に、主に東伊勢湾岸から沼津、信州松本を経て、群馬の毛野地方に人・文化の交流ルートがあったらしい。
東京湾に面した千葉の市原市や木更津市には早いころから、東海系の土器や弥生周溝墓が伝わっていたが、こっちからの交流ルートはそこの時代に影響は受けていなかった。