ジョギングはシャンパンの味

ジョギング、写真、革クラフト、木工、パンつくり、日本の古代史などを趣味にして楽しんでいます。

家族葬におもう

2022年07月25日 05時59分46秒 | 暮らしの出来事

昨日、近所に住み、そして私と同じ会社にいた、先輩の奥さんが、先月亡くなっていることを人づてに知った。
すでに、半月前に、家族葬が終わっていたとのことである。
昔なら葬式というセレモニーを通じて個人との関連深さに応じて、個人への思い出を、関係する人同士で共有する時間として、葬式という儀式を持ったものである。
しかし、今回の場合、町内会の個人の死亡の通知も廻ってなくて、日にちが過ぎてから、人づてに聞いて、知ったわけである。

最近の葬儀は、家族葬が大半を占めていて、この世から居なくなったことを黙ってスルーすることが、流行っているようである。
これは、家族葬の大半が、故人の意思と関係なく、葬儀というセレモニーを通じて、葬儀を行う喪主(大抵がの場合息子)が、これから新しく、故人の関係者との触れ合いを避けるために選ぶ簡略な葬儀の方式のようです。

社会の中で、個人としての存在はとても孤独で、社会や地域は、人間をシステムや組織の一員として、存在の記録はされても、生活も含めてそこに住む個人を抱え込むことが無くなってしまったようである。
その例として、分かりやすいのが社会の最小単位の会社での雇用が、契約社員が多くなり、社員と会社の結びつきがとても薄くなっている。
それが、正規の社員であっても、給与から、退職金や、住宅手当、保養所など、個人と会社の結びつきの物が少なくなり、やっぱり仕事以外の関係が薄くなっていることなどである。

今、日本社会が成長の無い国になった理由の一つは、日本社会の特徴だった、人間同士の深いつながりが無くなり、帰属する社会(会社)への安心感が無くなった、ことにあるのかもしれない。
今一度、立ち止まって、これらの昔の社会で、個人の生活を込みで、包括するやり方を見直すべき時かもしれない。
日本が一番成長している時代は、個人にとって生活に安心感のある社会であったように覚えている。

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