「テロ行為」を撤回=大音量デモは重ねて批判―石破自民幹事長(時事通信) - goo ニュース
それは「批判」ではない。批判でなく非難。厳密に違うこの2つの言葉の意味を,どうして辞書も引かずに使用するのだろう。
そこで,石破発言を彼が「本質的に同じである」といった部分からとくに,「本質的に」という言葉をもう少し深く考えてみたい。
そもそも,我々は「本質的」な追求活動をしてきたであろうか,という点が第一。
第二に,「本質的に」を多用することでごまかしてきたことが多いのではないかという,自省の意味を含めて考えてみる。
第一の問題。本質的追求活動であるが,僕は,学問においてさえ,それがなされることは少なくなってきていると感じている。
たとえば,「微積分学の本質はなにか」という問いかけに対し,「変化量を見抜く目を養うこと」などという解答はしてきたであろうかということである。もちろん別解はあると思う。「大学入試で高得点を取りやすい分野」であるとか。しかし,そうした「実利」を求めることが,「学問の本質」と相容れないのは自明である。実利を求めるのであれば,そもそも学問が不要である。実利を求めるなら実学を学べばよいのである。ちょうどそれは,パソコンの仕組みを学ぶ必要はなく,使い方を学べばよいように,である。
第二の問題。自分も相手をけむにまくときに「本質的には違うのでは」などといってごまかすことが多い(かもしれない)。ほとんどの人間が使い分けのわかっていない言葉を使うというのは,それは便利である。とくに「的に」を入れると焦点がぼやけるので逃げ道を作ることができるので非常に便利である。
石破発言の問題点は,実はこの2点で喝破できると考えている。石破は「本質的に」というが「では,民主主義の本質を述べよ」と問いかければよいのである。声を上げるのがダメならばではどこでいうのか。たしかに街頭でやたらと連呼されるのは苦痛に感じるときもある。しかしながら,警察の許可を得て,つまりは「公共の福祉に反しない」レベルであると了解を得ての活動に,誰が文句を付けられよう。
そして「的に」といって焦点をぼやかす行動。焦点をごまかす手法としては「横文字の多用」がよく使われるが(役所言葉ではとくに注意しておきたい;グローバリゼーションなど),「的に」を多用する人間も,予め反論と自己軌道修正を考えているのである。ずるがしこいのである。自分もそうであるが。
「テロとデモは違う」と反対するのも結構だが,誰か一人でも著名人が「じゃあ石破さん,”本質的に”どう違うのか・どう同じなのか,説明していただけますか」と呼びかけてみてはどうか。きっと石破は「的に」ごまかすだろうけど。
閑話休題。
国際法上,たしかに機密はあるだろう。それに異論はない。しかし,日本国憲法ある限り,「知る権利」を最高法規が保証している限り,そうやすやすと「大本営発表」を信じることもできないし,信じたくないのが普通ではないだろうか。
また,自民党に投票しておきながら今頃になって「それは違う」と言い出すのも,投票に行かないくせに「それは違う」というのも,どうなのだろう。まずは選挙でしっかり見極めること。「実利」にとらわれて,自分の選挙区の未来だけを見て,経済問題だけを表面的に見て(=非正規雇用問題・雇用空洞化を置き去りにして),「それは違う」というのは,ちょっと都合がよすぎるとも思う。
違憲状態にある現在の選挙制度ではあるが,それでも投票すること。「ねじれ国会」を解消した国民の大多数の意見を代表している自民党にしてみたら,「いまごろ何言ってるのこの人達」というのが,偽らざる本音だろう。それを見越しているから,僕はいつでも「自民党批判」を続けるのである。