「 ドイツ皇帝博愛記念碑 」
平良は ( ピサラ ) と称し、人の住むにふさわしい地。
綾道 ( アヤンツ ) は 「 美しい道 」 の意味で、それぞれ宮古コトバである。
平良五箇 ( ピサラグカ ) は、旧藩時代の間切りで、
西里、下里、荷川取、東仲宗根、西仲宗根の五村のことである。
この平良五箇の歴史を探して綾道を歩いたので、
これから少しずつ紹介して行きたいと思っている。
明治6年 ( 1873年 ) 7月17日。
ドイツ商船ロベルトソン号は中国の福州からオーストラリアに向かう航路の途中、
台風に遭遇し、宮古島の南海岸・宮国村穴川の沖合いで座礁難破した。
これを発見した宮国村の人々は夜通しかがり火を焚いて、
遭難したその商船の乗組員8名を荒れ狂う海の中、救助した。
宮古島在番・蔵元は、乗組員8人を宮国村番所と野原村番所において、
34日間に渡り手厚く介護し、8月17日、役人は年貢運搬用の官船を仕立て、
この8名の乗組員を帰国させたのです。
後にこの事実を知った当時のドイツ皇帝ウィルヘルムⅠ世は、
自分たちの命も危うい状況で乗組員を救助してくれた宮古島の人々の
勇気と博愛の精神を讃え、
明治9年 ( 1876年 ) 3月、軍艦チクローブ号を宮古に派遣して、
上野村に記念碑を建てさせた。
チクローブ号は中国の上海で大理石の記念碑を積み、
長崎と横浜を経由して琉球藩庁を表敬し、3月16日の朝に宮古島の張水港に着いた。
蔵元近くの親越の坂が記念碑の建立の場所に選ばれ、
チクローブ号の水平たちにより作業が進められ、
3月22日に記念碑建立除幕式が盛大に執り行われた。
ちなみに記念碑のサイズは碑面約170cm×60cm。
碑文の表はドイツ語と漢文が、裏には漢文が記されていたという。
所在地 : 宮古島市平良 西里