平良は ( ピサラ ) と称し、人の住むにふさわしい地。
綾道 ( アヤンツ ) は 「 美しい道 」 の意味で、それぞれ宮古コトバである。
平良五箇 ( ピサラグカ ) は、旧藩時代の間切りで、
西里、下里、荷川取、東仲宗根、西仲宗根の五村のことである。
この平良五箇の歴史を探して綾道を歩いたので、
これから少しずつ紹介して行きたいと思っている。
この記念碑は、大正14年7月に宮古神社が建立された際、
宮古の産業界の基礎を作った下地親雲上恵根 ( しもじぺーちんけいこん ) 、
砂川親雲上旨屋 ( うるかぺーちんしおく ) 、稲石刀自 ( いないしとじ ) の三者を顕彰し、
同境内に建立したものである。
碑の形状は縦264cm、横63cm、幅27cmの直方体のコンクリート造りである。
碑文は当時、沖縄史研究者として知られた眞鏡名安興 ( まじきなあんこう ) がまとめたものである。
表には 「 産業界之恩人・下地親雲上恵根、砂川親雲上旨屋、稲石刀自・記念碑 」
「 沖縄県知事正五位勲四等亀井光政書 」 の文字が記されている。
下地親雲上恵根は、1655年 ( 順治12年 ) に上国の帰途、松苗数本を持ち帰り、
大武山・島尻後に試植、さらに1681年 ( 康煕20年 ) に2000本の松苗を洲鎌村に植え、
造林の瑞緒を開いた。
砂川親雲上旨屋は1594年 ( 万暦22年 ) に御物宰領で上国の帰途中国に漂着し、
3年後、帰国に際し芋かづらを持ち帰り、栽培普及に努めた。
稲石刀自は、1583年 ( 万暦11年 ) に緩錆布を創製して琉球王国に献上した。
また宮古上布織製の端を開いた人物である。
碑文の内容は三者を讃えるとともに、今日の宮古の産業界の発展は彼らの恩恵によるものとし、
これを顕彰することで、今日および後世の人々に報恩報国の道を教示しようとしたものである。
所在地 : 宮古島市平良 西里