平戸港の西南約3kmの所に,眺望の良さで知られている川内峠がある。
その峠の頂上に 「 山清く海うるはしと たたえつつ旅人われや 平戸よく見む 」 という
吉井勇の歌碑が立っている。
標高約270mの高さに大草原が広がる峠一帯からは、
九十九島をはじめ生月島、遠くは壱岐、対馬などが一望に見渡せ、大パノラマが楽しめる。
吉井 勇は、維新の功により伯爵となった旧薩摩藩士・吉井友実を祖父に持ち。
海軍軍人で貴族院議員も務めた吉井幸蔵を父に、東京芝区に生まれた。
幼少期を鎌倉材木座の別荘で過ごし、鎌倉師範学校付属小学校に通う。
1900年(明治33年)4月に東京府立第一中学校(現在の東京都立日比谷高等学校)に入学するが、
落第したため日本中学(現在の日本学園中学校・高等学校)に転校した。
漢学塾へ通い、『十八史略』『文章規範』などを習う。
この頃『海国少年』に短歌を投稿して1位となった。
1905年(明治38年)に攻玉社を卒業後には胸膜炎(肋膜炎)を患って入院するが、
鎌倉の別荘へ転地療養した際に歌作を励み、
『新詩社』の同人となって『明星』に次々と歌を発表。
北原白秋とともに新進歌人として注目されるが、翌年に脱退する。
1908年(明治41年)、早稲田大学文学部高等予科に入学する。
途中政治経済科に転ずるも中退した。
大学を中退した1908年(明治41年)の年末、耽美派の拠点となる「パンの会」を
北原白秋、木下杢太郎、石井柏亭らと結成した。
1909年(明治42年)1月、森鴎外を中心とする『スバル』創刊となり、
石川啄木、平野万里の三人で交替に編集に当たる。
3月に戯曲『午後三時』を『スバル』に発表。坪内逍遥に認められ、
続々と戯曲を発表して脚本家としても名をあげる。
1910年(明治43年)、第一歌集『酒ほがひ』を刊行。
翌年には戯曲集『午後三時』を刊行し、耽美派の歌人・劇作家としての地位を築いた。
1915年(大正4年)11月、歌集『祇園歌集』を新潮社より刊行。
装幀は竹久夢二、このころから歌集の刊行が増える。
歌風は耽美頽唐であり、赤木桁平から「遊蕩文学」であるとの攻撃を招いた。
1919年(大正8年)11月、里見、田中純、久米正雄らと『人間』を創刊。
土佐での隠棲生活を経てに京都に移り、歌風も大きく変化していった。
吉井 勇については、北原白秋、与謝野 寛、木下杢太郎、平野万里らと
天草の下田にある 「 五足の靴文学記念碑 」 の時に再度紹介したいと思っている。