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「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

大分県院内の石橋 29 「 大副池橋 」

2013-05-22 04:48:58 | 大分の石橋



暗渠のような池に繋がる大副池橋







橋の底部にも石が敷かれてある







大きな石桁で橋を支えている







橋の側面の石積み








自然石を積み上げて橋脚にしその上に桁を載せている








池への流れ込み口がある下流側







橋の下流にある大副池




所在地 /  大分県宇佐市院内町大副
架橋  /  不明
石工  /  不明
長さ   /  6.0m    幅   /   3.8m
拱矢  /  1.5m    径間  /   0.9m
桁厚  /   20㎝   
桁橋


大副池橋は、大副池に流れ込む小さな谷川に架かる暗渠のような橋である。
周りはブロックなどで整備され、通行部分もコンクリートで拡幅されているため石橋だとは気付き難い。
壁石や橋脚となる部分は自然の大きな栗石が使われており、
その上に桁を載せただけの簡単な石橋である。


大副池橋へのアクセス
大副池橋へは大重見橋から旧・院内役場方面に坂を登ってトンネルを下りると、
カーブした先に写真のような池が見えるので、その池の方向に真っ直ぐ細い道を入って200m
ほど行った場所に架かっている。
駐車は、橋の袂の広くなった場所に止められる。



5月21日 「 小満の朝 」

2013-05-21 06:56:33 | 朝の風景とその他の風景







今朝はどんよりとした曇った朝だった。
そんな今日は、小満である。

小満とは秋に蒔いた麦などの穂がつく頃で、
ホッとひと安心 ( 少し満足 ) すると言う意味である。
田畑を耕して生活の糧を稼いでいた時代には、
農作物の収穫の有無は人の生死にかかわる問題であった。
そのため、麦などに穂がつくと 「 今のところは順調で、先ずはひと安心! 」 と、
満足したことから小満と言う名前が付いたようである。

楽観や怠慢は心の隙から来るものだけど、
目先の成果を確認して、労働の意欲をかき立てるのも必要だと思う。
そんな意味からも小満ではないが、今日も満足の行く仕事がしたいものである。
そろそろ仕事に行く準備をしなくては・・・





沖縄県宮古島市下地町   「 川満大殿のミャーカ ( 墓 ) 」

2013-05-21 06:21:31 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



川満大殿の古墳
































川満大殿の古墳は、宮古島市下地町の下地町指定文化財で、
洲鎌集落東方の森の中にあり、人目に付きにくい農道の前にひっそりと存在する。
加工した大きな石を積んだミャーカ ( 墓 ) は、川満大殿とその妻が眠る巨岩墓で、
古い石垣にガジュマルの木の根が巻き付き、敷地内はさまざまな樹木や雑草が生い茂っている。
ミャーカの築造は1500年~50年ごろだといわれている。

下地町の建てた案内文によると、
5百年以上も前の宮古の社会では門閥の背景が無ければ
人の上に立つことは絶対に不可能であったという。
平民として、田舎に生まれた川満大殿が一躍下地の首長に任じられたことは
かって例のない出世であったとされる。
大殿は、寅年の生まれと言われているので、長禄2年天順2年(1458年)の生まれと推定される。

宮古首長、仲宗根豊見親の認めるところとなり、
その知遇を得て遂に下地の首長に任ぜられた。
大殿として残っているのは、弘治11年(1498年)に仲宗根豊見親の命を受け、
ベウツ川掘割工事により、嘉手苅南部水溜りの汚水を排出して病原を絶ち、
併せて広大な農耕地を拓いて勤農に力を尽くした。
永正3年正徳元年(1506年)には加那浜に前代未聞の一大土木工事を起こして
橋道を築造して庶民苦難を除き、
若くして非業の死を遂げた義人、川満村の真種子若按司を庇護して、
慈悲人情の手本を示し、さらに八重山のアカハチ征伐、与那国の鬼虎との戦に従軍して戦功をたてた。
将に智仁勇兼備の巨人で下地の生んだ偉人である。


所在地 : 宮古島市下地町洲鎌ハシモト280



熊本県球磨村  「 一勝地駅に停車するハチロク 」

2013-05-21 06:18:50 | モノレール ・ 乗り物 ・ 旅客機



一勝地駅に停車するSLハチロク


















人吉駅を出て八代までの途中、渡、一勝地、白石、坂本の駅で停車する。
その停車時間はマチマチだが、一勝地ではいったん外に出るくらいの時間があったので、
一勝地駅や停車するハチロクの姿を写すことが出来た。




今年もオオヤマレンゲが咲いた。

2013-05-21 06:15:57 | 花・鳥・虫・魚・猫
























下を向き、ややうつむき加減に咲くオオヤマレンゲ。
そんなオオヤマレンゲが我が家の庭に今年も咲いた。


オオヤマレンゲ ( 大山蓮華 )
モクレン科モクレン目に属する被子植物の科で
花に花弁、雌蕊と雄蕊が 多数あって、らせん状に配列するなど
被子植物の古い形態を残すグループとされている。

花が大きくて美しいものが多く、
いくつかの種類が庭木や街路樹として栽培されいる
葉は単葉で托葉は芽を包み早く脱落する。


学名 : Magnolia sieboldii K. Koch subsp. japonica Ueda
別名 : 深山蓮華、天女花、森の貴婦人
和名の由来 : 奈良県の大峯山や、大台ケ原周辺に自生し、蓮の花に似ているから 
性状 : 落葉低木
樹高 : 2 ~ 4メートル
分布 : 本州の関東以西と四国、九州に自生地がある、 朝鮮半島、 中国
花期 : 初夏 ( 5~7月初旬、高山では遅れる )

ちなみにオオヤマレンゲの花言葉は 「 変わらぬ愛 」 だそうである。



沖縄県多良間島   『 ウェーンマの像と多良間シュンカニの歌碑 』

2013-05-20 06:00:26 | 離島めぐり



子どもの手を引き酒瓶を持つ 「 ウェーンマの別離の像 」














多良間シュンカニの歌碑





多良間シュンカニとは宮古民謡の一つで、
多良間島に赴任した駐在人と現地妻の悲恋の別れの歌らしい。
石碑にその歌詞が書かれており、その隣には母子像があり、
その駐在人 ( 役人 ) の世話をした女性ウェーンマが任期満了で戻って行く駐在人を見送る姿らしいです。
駐在人が島を離れて行く姿をこの場所から見ていた場所であったと思われる。


『 多良間シュンカニ 』

前泊(マイドマス゜)道がまからよ マーン
下(ウ)りゆ坂ます 小径(ユズ)からよ スーリ
主(シュ)が船(フニ)迎(ンカ)いがよ スーリ
すが下りよ

( 訳 )
前泊の道から、浜へ下りる坂から、小道から、
ご主人さまの船を迎えます。

片手(カタティ)しや坊子(ボウズ)がましゃうきよ マーン
片手(カタティ)ゆしや 瓶(ビズン)ぬ酒持(サチ)むてぃよ シューリ
主が(シュ)船(フニ)うしゃぎがよ シューリ
すが下(ウ)りよ


( 訳 )
片手では子どもを連れて、片手では瓶の酒を持って、
ご主人さまの船を送ります。

東(アガス゜)ん立(タ)つ白雲(シラフン)だきよ マーン
わーらんゆ立つ ぬり雲(フン)だきよ シューリ
うぷしゃやなりわーらだよ シューリ
主がなすよ

( 訳 )
東に立つ白雲のように、上に立つ雲のように、
偉い方になってください。ご主人さま。



1637年、首里王府が宮古・八重山の島民に課した人頭税。
廃止される1903年まで人々を苦しめ続けた非常に過酷な税制として知られている。

「 多良間シュンカニ、八月踊りをはじめ、多良間島には人頭税にまつわるものが多い 」 と島の人が言うように、
宮古島から遠く離れた多良間島でも人頭税は島民の暮らしに多大な影響を及ぼしていた。
王府から派遣された役人が島に赴任すると、
役人の多くは身の回りの世話をさせる島の女性を賄女 ( いわゆる現地妻 ) として傍に置いた。
「 ウェーンマ 」 あるいは 「 ウヤンマ 」 と呼ばれた彼女たちの状況や心情を詠んだ唄が島々に残っている。
その代表的なのが 「 多良間シュンカニ 」 であろう。
任期を終えて島を離れる役人との離別に、悲しみ嘆くウェーンマの心情が唄われている。



福岡県築上町  ・  旧蔵内邸  「 座敷 ・ 中庭 」

2013-05-20 05:57:25 | 近代化産業遺産・土木遺産



旧蔵内邸 「 座 敷 」








座敷横にある10畳間







狩野軒祐厚信が描いた四季の果物が描かれた天袋



























座敷は大正6年に増築され、座敷10畳と10畳間の2室が続く。
座敷にはかつて掘り炬燵があったと言われている。
床脇の天袋の戸の引き手に桃をあしらい、
春夏秋冬の果実が描かれ、 「 狩野祐軒厚信 」 の銘がある。






ガラス戸が立て込まれた中庭









廊下には庭に面してガラス戸を立て込み、花崗岩の切り石を幾何学形に配している。
当時としては、その斬新かつモダンな中庭を楽しむことが出来る。









柴犬用のドッグフード

2013-05-20 05:54:44 | 柴犬 ムサシとピース












土曜日、フィラリアの薬を買いにムサシを病院に連れて行った帰りに、
ドッグフードを買ったら柴犬用のドッグフードを貰った。
今までチョイスのラム&玄米を与えていたが、
柴専用だったらロイヤルカナンの 「 柴犬 」 でもいいかな?って思っているが、
ドッグフードはなるべく変更したくないので、
ムサシの健康や将来のことも考えて決めたいと思っている。





沖縄県宮古島市   「 下地神社 ( ツヌジ御嶽 ) 」

2013-05-19 06:18:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所




















洲鎌公民館の南方300mほどの所に、二つの鳥居と石灯篭、拝殿、本殿がある。
地元では 「 津野瀬 ( ツヌジ ) 御嶽 」 と呼ばれており、
町民や島外からの喜捨によって昭和53年に立派な社殿が出来てから、一般の参拝者が多くなった。
祭神は母テダの生んだ十二の神々のうちの大主ヌ主豊見親を祀り、学問、航海、豊作の神とされる。
下地神社はここから約1キロの海岸寄りにある赤崎御嶽の中取り ( 遥拝所 ) である。
下地神社では、旧暦6,8,10月の庚午の日に例祭があり、宮古各地から参拝者が訪れる。
また、11月の 「 こもり御願 」 には、ツカサたちは赤崎御嶽で祈願し、
2日目から下地神社に七晩も泊り込んで祭事を行なう。
一般の人も酒、洗米、菓子を供え、大主 ( 豊穣 ) をもたらすよう祈願する。


所在地 : 宮古島市下地町洲鎌




メタセの杜で散歩した。

2013-05-19 06:15:39 | 柴犬 ムサシとピース




















昨日は天気が良かったので、動物病院の帰りに 「 メタセの杜 」 に寄ってムサシと遊んだ。
気候的に快適な季節なので人が多いだろうと思っていたら、意外と少なくて、開放的だった。
子どもたちが遊んでいたサッカーボールがムサシの前にコロコロと転がって来ると、
恐る恐る興味を示していた。




大分県院内の石橋 28 「 大副水路橋 」

2013-05-19 06:12:27 | 大分の石橋



今は崩れ落ちて橋の下は栗石で埋まっている








橋の向うは田んぼになっている







橋の上を通る水路は健在である







橋の下から見た輪石部分







累々と積まれた壁石






石橋の近くにある展望台





所在地 /  大分県宇佐市院内町大副 
架橋  /  不明
石工  /  不明
長さ   /   12.7m    幅   /   2.1m
拱矢  /     2.5m    径間  /   5.55m
環厚  /    45㎝    
単一アーチ



ここへは以前、稲刈り前と稲刈り後に来たので写真に変化があると思うが、
最初に来た時は草や木々に覆われてほとんど見ることが出来なかったので、
鎌とナタを持って草や木々を切ったが、それでも手の届かないところは刈ることが出来なかった。
大副水路橋は、以前は田んぼの畦道に設置された水路を通す橋であったが、
現在は川があったと思われる場所が田んぼになっており、
橋のアーチや壁石は残っているものの、その奥は栗石で塞がれているため、
貫通していないトンネルの入り口のようになっている。


大副水路橋へのアクセス
大副水路橋へは、宇佐方面から国道387号線を旧・院内町役場の手前から右に入り、
500mほど行ったところにあるお宮から右に300mほど行った田んぼの畦の下にある。
駐車は田んぼの入り口の路上に駐車した。


福岡県築上町  ・  旧蔵内邸  「 居間と中庭 ~宝蔵 」

2013-05-18 06:25:34 | 近代化産業遺産・土木遺産










鳳凰の彫刻欄間







麻の葉の組子障子の欄間




居間は、大正5年ごろに増築されたもので、
東に床の間を設け、廊下側の壁に竹と木を組んだ円窓を開ける。
庭側は雪見障子になっており、池庭の奥に枯滝石組がよく見える。
2室境の間に鳳凰の彫刻欄間を廊下側の床に麻の葉の組子障子が欄間がはめてある。







旧蔵内邸の中庭は、四角や円、半円など花崗岩の切り石を幾何学形に配した斬新的な中庭になっており、
日本庭園にモダンな要素を取り入れた当時としては先駆的な事例である。
廊下の窓ガラスも磨りガラスで縁取られ、一体となった意匠である。






展示室となっている 「 宝 蔵 」






「宝蔵」の内部は展示室になっているが撮影禁止なので入り口のみ









「 宝 蔵 」 は、棟木に大正5年9月と墨書きされ、最も早く増築された蔵である。
10間×3間(116㎡)の二階建ての大規模な土蔵造りで、
外壁を白漆喰で仕上げ、漆喰を塗り上げた小庇付窓を数く配した特色のある造りである。
1階に4ヶ所 ( 現在は1カ所 ) の押入れがあり、2階には掛け軸専用の収納などがある。
かつては陶磁器など美術品の木箱が多数置かれていた。










武 邦彦とタカエノカオリ

2013-05-18 06:23:36 | 競馬・ボート



タカエノカオリで桜花賞を勝った騎手時代の武 邦彦





武 邦彦は、騎手時代 「 ターフの魔術師 」 として、
当時、福永洋一と一世を風靡したスタージョッキーである。

夕べ甲子園球場で行なわれた阪神とソフトバンクの交流戦で、
ネット裏の一番前の席で、見たような人がテレビの画面に写っていた。
最初は 「 ひょっとしてタケクニ? 」 と思って見ていたら、
誰かに感付かれたのだろうか?しばらくして白い服から黒のジャンパーに帽子を被って
いでたちを変えて来た。
息子の武 豊も阪神ファンだと聞いていたので、こうして観戦に来ても不思議ではないが、
思わぬ場所での拝見に感動してしまった。

武邦彦といえば、ロングエース、キタノカチドキなどの馬を思い浮かべるが、
一度きりの騎乗で桜花賞馬へと導いたタカエノカオリを思い出す。


タカエノカオリよ
君の母タカエミドリは
君を産んですぐ他界
君は祖母の乳を呑んで育ったという

タカエノカオリよ
君は知っていただろうか
長身痩躯のひとりの男が君を見ていたことを


そんなタカエノカオリの詩が頭をよぎった。

母タカエミドリはタカエノカオリを生んで3ヵ月後に、腸ねん転のためこの世を去っている。
かたときも母親から離れず、乳房にむしゃぶりついて戯れ遊んでいた毎日。
しかし、その母親が突然、目の前から姿を消してしまったのである。
空腹に耐えられず毎夜泣き明かしてきたタカエノカオリ。

自分の子どもにしか乳を飲ませない動物の習性は、サラブレッドも同じである。
なんとかならないものか、飛渡さんは 「 ダメだろうが試してみよう 」 と、
祖母ミツコの乳を飲ませることを考えた。
それはタカエノカオリのボロ(ふん)を祖母の体にこすりつけ、
ミツコの子どものボロをカオリにこすりつけて、そばに近づけた。
祖母の下腹にもぐり込んで乳房に飛びついていったカオリ。
最初はけげんそうな顔つきで一、二度振り返った祖母ミツコだが、
それ以上はなにもなく、祖母はわが子と孫娘の2頭に乳を与え、
カオリは祖母の乳を飲んで元気に育ってきたという。

しかしこんな悲しい生い立ちだけではなく、タカエノカオリは生まれた時から、
右のうしろ脚がねじれていて、競走馬として走るのは難しいだろうと言われてきた。
脚が曲がっていては買い手もつかない。
3歳(現2歳)の春になっても入厩先も決まらず、ひとり寂しく牧場にとり残されてきた。

そんなある日、期待されて中山競馬場の佐々木猛厩舎に入っていた飛渡オーナーの愛馬タカエノハナが、
一度ならず二度、三度と調教中に騎乗者を振り落とし、“これではレースに使えない”と牧場へ帰されてきた。
その代わりにと競馬場へ送り込まれたのがタカエノカオリだった。

その馬が長身痩躯なひとりの騎手の手綱に操られ、
ピニー、ユウダンサーズ、サクライワイの内からスルスルと抜けて桜花賞の栄誉に耀いた。




きょう、きみと、韓国焼酎 『 鏡 月 』

2013-05-18 06:21:03 | 泡盛 ・ 焼酎 ・ 酒







お洒落な四角いグリーンの瓶を石原さとみがCMする韓国焼酎 『 鏡月 』

豊かな自然に囲まれた雪岳山 ( ソラクサン ) 系の澄みきった天然水で仕上げた焼酎です。
その味わいは、すっきりとして口当たり優しく、フルーティーなので、
ロック・水割りはもちろん、ソーダ・お茶割りなどお好みのスタイルでお楽しめる。





沖縄県宮古島市 ・ 沖縄の文化財 「 来間島のスムリャーミヤーカ 」

2013-05-17 06:49:52 | 沖縄の文化財



栗間島 「 スムリャーミャーカ 」




















来間集落の南約800mにあるスムリャーミャーカは、来間島の古式床式墳墓である。
スムリャーミャーカとは、島の長間家の墓ということで、
古くは来間大殿ミャーカ、最近ではグンソーミャーカとも呼ばれ、
大正時代まで使用されていたという。
この墳墓の中央には一枚の珊瑚石灰岩の平板板がかぶさり、石室は3室になっている。
横は9m、縦が6.5m、高さが2.3mである。
副葬品のなかには15世紀ごろの中国の青磁片も見つかっていることから、
そのころに造られたのではと見られる。

(県指定文化財)