「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

ブルーインパルスの 「 感謝を込めたワッペン 」

2013-05-26 07:51:52 | 戦闘機 ・ 自衛隊関係







築城の空に宮城が残す 「雲 跡」































工事現場の棟上の日、空に描かれた “ サクラ ”






航空自衛隊築城基地の管制塔





毎週、日曜日に放送されている 「 空飛ぶ広報室 」 。
そのドラマの主役を演じる空井 ( 綾野 剛 ) がパイロット時代に交通事故に遭ったのが、
築城基地周辺である。
テレビドラマの中では百里基地所属になっているが、原作では我が築城基地となっている。
その築城基地周辺で今年の3月末までブルーインパルスの訓練が行なわれていた。
そんなブルーインパルスのことが今朝の 『 毎日新聞 』 に掲載されていたので、取り上げてみた。

記事を書いた 【 上入来 尚記者 】 が取材を通して気付いたことが書かれてあった。

 
 航空自衛隊のアクロバット飛行隊 「 ブルーインパルス 」 が2年間拠点にしていた芦屋基地から
本来の所属先である宮城県・松島基地に帰還し、4月から訓練を再開した。
大震災で被災した松島基地が復旧したためだ。

 芦屋基地での訓練終盤、飛行前の打ち合わせにを取材させてもらった際、
パイロットの肩に付いているワッペンが目に留まった。
「 ASHIYA TSUIKI MISHIMA 」 と横文字が刺しゅうされていた。

 芦屋基地の 「 芦屋 」 、築城基地の 「 築城 」 、山口県萩沖の 「 見島 」 の地名だ。
離着陸を繰り返したり、訓練空域となった土地への感謝を込めて作ったそうだ。
東北の空を飛びながら、九州・山口の思い出を心の糧にしてほしい。

と、書かれてあった。


僕らも現場で仕事をしながら時折、頭上に描かれる雲のアートに手を止めて見入ることがあったが、
それだけでも充分な気持ちだったのに、
彼らパイロットが感謝の気持ちを込めてワッペンに地名を刺しゅうしてくれていることが嬉しかった。
そして、「 感謝をしているのは僕らの方 」 だったのかも知れないと思った。

また、秋の航空祭で築城の空に夢を描いてくれることを楽しみにしているし、彼らを心から歓迎している。
ありがとう!ブルーインパルス。 築城の空で待ってるぞ!




沖縄県中城村 ・ ペリー提督が絶賛した世界遺産の 「 中城城跡のティダが門 」

2013-05-26 07:48:25 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡



世界遺産 「 中城城跡 ・ティダが門 」







北の郭の城門 ( 裏門 )











北の郭にある城門(裏門)は、太陽(てぃだ)が穴が
東に向って建てられた門であり、
かつてペリー探検隊一行がエジプト式と評し、
その精巧さを絶賛したアーチ門である。

中城城は14世紀後半頃まで、先中城按司 ( さちなかぐすくあじ ) が数世代に渡り、
西の郭、南の郭、一の郭、二の郭を築き上げ、
1440年に読谷の座喜味グスクから移って来た護佐丸によって北の郭と三の郭が増築され、
現在の形となっている。

城は縦長の連郭式の山城で、6つの郭で構成されており、城壁は主に琉球石灰岩の切石で積まれている。
西に東シナ海、東に中城湾 ( 太平洋 ) を望み、与勝半島や知念半島、
さらには周囲の島々まで見渡せる眺望の素晴らしいところにある。


築城時代に差があることは、石積みの手法の違いから推察することが出来る。
城主の流れを辿ってみれば、英祖王の子 ( 大成王の弟 ) が中城王子となり、
この地にグスクを築いたとされるが、どういう理由かは分からないが、
城主・中城按司は、第一尚氏の時代になると、島尻の真栄里 ( 糸満市 ) に移されてしまう。
その後、中城グスクの城主になったのが、座喜味城を居城としていた護佐丸であった。

護佐丸が中城に移って来たのは、与勝半島で勢力を伸ばし、
周辺地域を支配していた勝連城の亜麻和利から中山を守るために、
中山王・尚泰久から命じられたものであった。



ペリー提督来琉の日 「 1853年 ・ 復帰前 ( 琉米親善の日 ) 」

2013-05-26 07:44:42 | 今日は何の日?






今日は、1853年にペリー提督が琉球に来た日で、
沖縄が本土復帰前は 「 琉米親善の日 」 とされていた。




5月26日の朝

2013-05-26 07:42:21 | 朝の風景とその他の風景



黄金色に色づいた麦畑の向うに昇る朝陽




このところ30度を越える夏日が続いているが、
冷え性で低体温のボクにとっては快適な気温である。
去年までは暑さに悩まされたが、
今年になって体調異変から今でもトレーナーを着て、靴下を履いて、
さらに毛布と冬布団を着て寝るほどだから、この暑さは歓迎である。





大分県院内の石橋 30 「 水雲橋 ( すのりばし ) 」

2013-05-25 06:41:11 | 大分の石橋



木々に覆われて橋全体が見えない







下流の新橋からの遠望







輪石は二重に組まれている






スパンの割りに薄いアーチ頂部



所在地 /  大分県院内町原口 ・ 恵良川
架橋  /  昭和2年
石工  /  松田新之助
長さ   /  40.4m   幅   /  3.6m
拱矢  /   5.5m   径間  / 17.4m
環厚  /   40㎝   
2連アーチ


水雲橋 ( すのりばし ) は旧・院内町の中心街に架かる橋で、
国道387号線から対岸の水雲地区に渡る町道の橋である。
川の上に架かるアーチはスパンが長いが、
左岸の崖の上には小さいアーチがあり、親子アーチになっている。
水面から約17mある腰高の橋である。


水雲橋へのアクセス
水雲橋へは国道387号線を旧・院内町の道の駅 「 いんない 」 から玖珠方面に向かって
約300mほど行った所にある中部小学校の道を挟んで反対側になる。
駐車は、橋の袂の広くなった場所に駐車したが、木々に覆われてあまり見ることは出来ない。


2013 / 今年のスモークツリー

2013-05-25 06:36:11 | 花・鳥・虫・魚・猫



2013 / 今年のスモークツリー







白いスモークツリー







赤いスモークツリー












今年も我が家の庭にスモークツリーが咲いた。
紫陽花やバラも雨に似合うが、このスモークツリーも雨に似合う花である。
東に植えているので朝陽を受けて白や赤に霞む様子が好きで、
朝のひと時をスモークツリーを眺めながら過ごすことが多くなる季節である。


『 スモークツリー 』

科名:ウルシ科
学名:Cotinus coggygria
別名:ハグマノキ
原産地:南ヨーロッパ ヒマラヤ 中国
樹高:4m~5m
主な開花期:5月~6月


スモークツリーは、南ヨーロッパからヒマラヤを経て
中国に至るまでの広い範囲に分布する落葉性の樹木で、
成長すれば樹高は4m~5mになる。
雄株と雌株がある雌雄異株 ( しゆういしゅ ) の樹木です。

5月~6月に径3mmほどの小さな淡緑色の花を穂状たくさん咲かせ、咲き進むと紫色を帯びます。
花後、雌株は不稔花 ( タネを結ばない花 ) の軸部分 ( 花柄 ) が長く伸びて羽毛のようになり、
花穂の見た目がモヮ~とした感じなる。

スモークツリーの名前は、この開花後の花穂が煙のように見えるところに由来している。
和名のハグマノキ ( 白熊の木 ) は、その姿をハグマ ( ヤクのしっぽの白毛 ) で作られた
仏具の払子(ほっす)に見立てたものです。
果実が風に乗ってより遠くに飛ばされるように、花柄が羽毛状に伸びるとも言われています。
雄株は花穂がモヮ~とはならない。
園芸で一般的に栽培されているのは、鑑賞価値の高い雌株です。




愛犬ムサシとスモークツリー

2013-05-25 06:34:28 | 柴犬 ムサシとピース



ムサシと比較するとスモークツリーの大きさが分かる







朝陽で長く伸びた影




毎年梅雨入り前に咲くスモークツリーが、
今年もこうして 「 もわ~ 」 っと湧いたように咲いてくれた。
そんな庭でムサシが走り回る。
ムサシは家から自由に出入り出来るようにしているから、
散歩以外で外に出たい時は、庭で “ ひとり遊び ” をよくしている。
こっそり覗いて見ると、ボールや草履を咥えて走り回っているようだ。
未だ10ヵ月になったばかりだから、遊びたい盛りであろう。




沖縄県那覇市 「 儀間真常の墓 」

2013-05-24 06:29:15 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



儀間真常の墓



















儀間真常(ぎましんじょう)は、サツマイモや木綿織り、
砂糖の作り方などを国中に広め、沖縄を支える産業を起こした人である。

儀間真常は、1557年、真和志間切垣花村 ( まわしまぎりかきのはなむら ) に生まれた。
台風や日照りなどの影響を受けやすかったこの頃の琉球王国は、
食べ物が乏しく人々は食量不足に悩まされていた。
領主である父と一緒に、村を歩くことが多かった小さいころの真常は、
人々が苦しんでいるようすを見て 「 何とかしてみんなの暮らしを楽にしてあげたい 」 と思っていた。
14才になって、首里城に勤めるようになった真常は、
一生懸命働き、36才の時に父のあとを継いで領主になった。

39才の時、琉球王国の使者として中国に渡った真常は、
広い土地に青々と育っている豊かな農作物を見て驚いた。
「 このように農作物が育てば、琉球も豊になるのだが… 」

そんな思いで琉球に戻って来た真常に、いい報せが入って来た。
台風にも強く、やせた土地でも育つという、
まさに琉球にぴったりの作物が、ある村で栽培されているという報せだった。
イモという作物が、新しい食べ物として人々に喜ばれているというのだ。

さっそく真常は、このイモを中国から持ち帰った野国総管(のぐにそうかん)に会いに行き、
タネイモをわけてもらうと、家のうら庭でさっそくイモを育てた。
すると半年も経たないうちに、畑いっぱいにイモが育った。
イモの栽培は、そのあと真常の指導で琉球のあちこちに広まり、
さらには薩摩にも伝わって、サツマイモとして日本中に知られるようになった。

しばらくして、薩摩が琉球に攻め入って来た。
長い間平和な時代が続き、戦いに慣れていなかった琉球はすぐに敗れ、
捕虜となった尚寧王(しょうねいおう)は江戸に連行されてしまった。
尚寧王のお供として薩摩に渡った真常は、そこで初めて綿と出合った。

そのころ琉球の着物といえば、芭蕉や麻で造ったうすい布ばかりだった。
木綿の着物があれば、冬でも暖かく過ごせると考えた真常は、
綿のタネを持ち帰ると庭で栽培した。
それから泉崎に住んでいた薩摩出身の姉妹の助けを借りて、木綿の作り方を村の女性たちに習わせた。
こうして出来上がった木綿の着物は、のちに 「 琉球絣 」 として沖縄の特産品になった。

薩摩が侵入して来ると、琉球は中国との行き来を制限された。
また、薩摩にも、取れた作物を年貢として納めなければならなくなったため、
人々の暮らしは苦しくなっていった。
そんな人々のようすを見て悲しんだ真常は、 「 琉球を豊に出来る方法はないものか 」 と考えた。
そして、目をつけたのがサトウキビだった。

琉球ではサトウキビは栽培されていたが、あまい汁を食べ物の代わりとしていただけで、
サトウキビから黒糖を造る方法は誰も知らなかった。
黒糖が薩摩で高く売れているといううわさを聞いた真常は、黒糖づくりの方法を学ばせるため、
二人の若者を中国に渡らせた。

黒糖づくりを学んだ若者たちが中国から帰ってくると、
真常は自分の家の庭の砂糖小屋で黒糖を造り、やがて国中に広めていった。
およそ400年経った今では、サトウキビの栽培は沖縄の中心的な産業になっている。

儀間真常は、88才でこの世を去るまで、新しいモノを造り出す喜びと希望を、
苦しい時代を生きる人々に与え続けたといえるだろう。

そんな儀間真常の墓は首里崎山町の御茶屋御殿跡の下にある。




福岡県築上町  ・  旧蔵内邸 「 大広間から見た庭園 」

2013-05-24 06:26:51 | 近代化産業遺産・土木遺産



大広間から見た庭園






正面に角部屋の 「 茶室 」 が見える





座敷と控間の角に設置された 「 手水鉢 」







弓形天井の入側縁










18畳の広間が2室続く大広間の入側縁は
弓型天井が24畳にも連なる。
ここの窓ガラスを開けたその先には日本庭園が広がり、
優雅で開放的な視界が眼から心に伝わって来て、贅沢な気分にさせてくれる。
それは、まさに “ 至極の時間 ” である。



しそ焼酎 「 高譚 ( たんたかたん ) 」

2013-05-24 06:22:06 | 泡盛 ・ 焼酎 ・ 酒







先ず最初にこの焼酎に興味を持ったのが、 “ 北海道 ” の焼酎というところからだった。

「 鍛高譚 」 は、厳選された香り高いしそと
大雪山系の清冽な水を使用した爽やかな風味が、
刺身など和食が合う焼酎である。


「 鍛高譚 」 なんて読むんやろう。って思っていたら、「タンタカタン」 と読むのだった。
ドラムの軽快なマーチが聴こえて来そうなリズミカルな名前である。
これはれっきとした商品名、お酒 ( 焼酎 ) の名前である。
実在する地名から取っているだけなのです。
釧路管内白糠郡白糠町の茶路川中流域にある地名が 「 鍛高 ( たんたか ) 」 であるが、
それに 「 譚 」 を付け加えたものであるらしい。

「 鍛高 」 とはアイヌ語の 「 タンタカ 」 が由来で、
意味は魚のカレイやヒラメのことだそうだが、
「 譚 」 は瓢箪と思いきや、これもアイヌ語で、物語という意味らしい。
合わせれば 「 カレイ物語 」 ということになるのだろう。

“ しそ焼酎 ” の譚高譚の白糠町の鍛高地区は、実はシソの生産地である。
地元のしそ生産者のひとりで、北海道が認定する 「 名人 」 にもなっている平賀さんという方。
この方が自家製のしそでジュースを造り焼酎に入れていたようです。
「 これを製品化出来ないだろうか 」 ということで町に持ちかけたのが始まりだそうである。

全国を見ても前例がないとのことで、製造担当の旭川市の合同酒精工場が翌年試作品を製造。
その年に白糠町赤シソ+大雪の水のコラボレーションによる「しそ焼酎・鍛高譚」が発売となったものである。

「 鍛高譚 」 という名前ですが、一般公募で募集した候補から5つに絞り、
最終的に 「 タンタカリカー 」 に決定したが、
語呂合わせから 「 鍛高譚 」 「 たんたかたん 」 になったいう。

鍛高譚=たんたかの物語とは?
現在でも発売されているパッケージにはその物語の絵が描かれている。
「 たんたか 」 つまりカレイが紫の草を持ち帰り、魚たちが元気になったというストーリーで、
紫の草があった山をタンタカ山と名づけたというものである。



『 あそぼーい!走る 』

2013-05-23 04:59:02 | モノレール ・ 乗り物 ・ 旅客機



熊本駅に向う 「 あそぼーい号 」













たくさんの 「 くろちゃん 」 が描かれた車体












2011年6月から、豊肥本線の熊本-阿蘇-宮地間を走り始めた、観光特急 「 あそぼーい 」 号。
かつての 「 SLあそBOY 」 の愛称を引っさげ、
2010年に廃止された観光列車 「 あそ1962 」 の跡を継いでの登場となった。
愛称 「 あそぼーい 」 は、熊本弁で 「 あそぼうよ! 」 という意味の方言からと言われている。
乗る前から楽しい気分になれる愛称です。

改造元の車両は 「 オランダ村特急 」 から改造遍歴を繰り返してきたキハ183系1000番台気動車。
この 「 あそぼーい 」 で、実に5回目の改造であるが、
これまで使われてきた列車のイメージを微塵も感じないほどに生まれ変わったものである。

ボディいっぱいに、列車のイメージキャラクターである黒犬の 「 くろちゃん 」 をまとった外観は、
ユニークで微笑ましい。
そして車内もシートデッキを始め、隅々まで見て回りたくなるような面白い仕掛けや設備が満載で、
全車指定席、4両編成のあそぼーいは、1号車と4号車には、
大きな窓から飛び込む阿蘇の風景を楽しむ 「 パノラマシート 」 、
人気のファミリー車両、3号車には、列車の進行方向に関係なく、
シートを転換できる親子シート 「 白いくろちゃんシート 」 は、
車体デザイナーの水戸岡が試行錯誤のうえ作り出した優れものである。
木製ボールがいっぱいの中で遊べる 「 木のプール 」 、
たくさんの絵本が揃う 「 図書室 」 など、子どもから大人まで楽しめる遊園地のような車輌である。

又、熊本駅ー宮地駅間を駆け抜ける、阿蘇五岳の見所や、スイッチバックなど、
客室乗務員の解説とともに体感学習できるのも、うれしいものである。

ちなみに 「 あそぼーい 」 は、熊本駅ー宮地駅間を1日2往復する観光特急であるため、
乗車券と特急券の事前予約が必要である。



沖縄県多良間島   「 イビの拝所 」

2013-05-23 04:57:23 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所














イビの配所は、いつ誰が建てたものであるのかは定かではないが、
航海安全を祈願するために建てられたものであることは、
前泊港を唯一の玄関口として使用していた頃、
船が出航した後に、この拝所で航海安全のお祈りをしてから帰るのが慣例となっていたことからも
うかがい知れる。
ウエーム゜マたちも夫(役人)を泣く泣く見送った後は、
この拝所でねんごろにお祈りをしたといわれている。

昔は、船の出入りにウプフッツーとンガーフッツが使用されていた。
役人の出張、上納物の運搬、緊急連絡などに使われる公用船舶を地船または地下船といって、
ウプッツーに停泊し、ナガグーを伝って人の乗り降りや荷物の積み降ろしをしていた。
馬艦船などの民間商船はンガーフッツーを経てショウミンヴァリ゜、カディカリ゜のニリ゜に、
「 ンガヤパマ 」 「 ンガヤフツー 」 などの言葉があることでもうなずける。

また、イビの広場はウプリという虫除けの行事が行なわれる場所としても知られている。



長崎県島原市  「 島原新港南防波堤灯台 」

2013-05-23 04:55:38 | 長崎の灯台



























所在地 / 長崎県島原市島原新港南防波堤外端 
塗色  / 白色
構造  / 塔形   
構造材質 / コンクリート造
灯質  / 単閃緑光 毎4秒に1閃光
光度  / 実効光度 120カンデラ  
光達距離 / 5.5海里 
頂部までの高さ / 8.96m
平均水面から灯火までの高さ / 14.0m
現用灯器 / LD管制器Ⅰ型
電球 / Dー1
設置、点灯および業務開始年月日 / S.56.3.16




福岡県築上町  ・  旧蔵内邸 「 大広間 ・ 控間 ・ 神殿 」

2013-05-22 04:55:34 | 近代化産業遺産・土木遺産



旧蔵内邸の大広間と神殿








手前の広間から奥の広間へと続く














神殿






奥の広間から見た手前の広間







広間にある家紋が入ったすりガラスの金魚鉢のような灯器








大広間廊下の弓形天井










18畳間が2室続く大広間は炭坑主住宅で最大規模で、
屋久杉を使った弓形天井が連なる24畳の入側縁から庭園が一望できる。
天井高は11.4尺 ( 345cm ) もあり、
奥には5畳の上段と3畳の神殿が並ぶ最も格調の高い部屋である。






広間の手前にある 「 控 間 」







「 控 間 」








床の間と棚が並び、独特の木肌を持つ床柱を用いている。
押入れ内部にも落とし掛けと地袋を設けているのは他に類を見ない。
畳は大広間に敷かれていた建築当初の大正時代のもので、
「 備後手織中継表 」 といい、質の良いイ草の中央部だけ2本使い、
中央で継ぎ合わせて織るため継ぎ目が筋状に見える。
大変丈夫で長持ちし、心地良い感触のある畳である。









鹿児島県奄美市笠利町にある 『 歴史民俗資料館 』

2013-05-22 04:52:34 | 離島めぐり
























奄美地方で見られる 「 トゥール墓 ( 近世墓 ) 」







資料館に置いてある 「 ソテツの実 」





奄美大島の北部に位置する笠利町。
そこにある 「 アヤマル岬 」 の方へ入って行くと
道沿いの左側に 「 歴史民俗資料館 」 がある。
奄美の行政区分は鹿児島だが、文化は鹿児島でもなく沖縄でもない奄美独特なものがある。