JR戸畑駅北口にある 「 若山牧水の歌碑 」
われ三たび此処に来りつ
家のあるじ
寂び定まりて
静かなるかも
JR戸畑駅の北口を出ると正面に 「 若山牧水の歌碑 」 がある。
生涯を旅と過ごした牧水は、戸畑の地を三度訪れており、
そのことを詠った歌碑であろう。
若山 牧水 ( わかやま ぼくすい ) 本名 : 若山 茂は、
宮崎県東臼杵郡東郷村(現・日向市)の医師 ・ 若山立蔵の長男として生まれる。
1899年(明治32年)宮崎県立延岡中学校に入学。
短歌と俳句を始める。18歳のとき、号を牧水とする。
1904年(明治37年)早稲田大学文学科に入学。
同級生の北原射水(後の白秋)、中林蘇水と親交を厚くし、「早稲田の三水」と呼ばれる。
1908年(明治41年)早稲田大学英文学科卒業し、7月に処女歌集『海の声』出版。
翌1909年(明治42年)中央新聞社に入社したが、5ヶ月後に退社。
1911年(明治44年)創作社を興し、詩歌雑誌「創作」を主宰する。
歌人・太田水穂を頼って長野より上京していた後に妻となる太田喜志子と水穂宅にて知り合う。
1912年(明治45年)友人であった石川啄木の臨終に立ち合う。同年、喜志子と結婚。
1913年(大正2年)長男・旅人(たびと)誕生。その後、2女1男をもうける。
1920年(大正9年)沼津の自然を愛し、
特に千本松原の景観に魅せられて、一家をあげて沼津に移住する。
大正11年10月、御代田駅より岩村田へ向かい、
佐久ホテルに逗留し、数々の作品を残す。
1926年(大正15年)詩歌総合雑誌「詩歌時代」を創刊。
この年、静岡県が計画した千本松原伐採に対し、
新聞に計画反対を寄稿するなど運動の先頭に立ち、計画を断念させる。
1927年(昭和2年)妻と共に朝鮮揮毫旅行に出発し、
約2ヶ月間にわたって珍島や金剛山などを巡るが、体調を崩し帰国する。
翌1928年夏頃より病臥し、自宅で死去する。享年43才であった。
沼津の千本山乗運寺に埋葬される。戒名は古松院仙誉牧水居士。
牧水の死後、詩歌雑誌「創作」は歌人であった妻・喜志子により受け継がれた。
長男・旅人も歌人となり、沼津市立若山牧水記念館の第2代館長をつとめた。
牧水は旅を愛し、旅にあって各所で歌を詠み、日本各地に歌碑がある。
大の酒好きで、一日一升程度の酒を呑んでいたといい、
死の大きな要因となったのは肝硬変である。
ちなみに、夏の暑い盛りに死亡したのにもかかわらず、
死後しばらく経っても死体から腐臭がしなかったため、
「生きたままアルコール漬けになったのでは」と、
医師を驚嘆させた、との逸話がある。
自然を愛し、特に終焉の地となった沼津では千本松原や富士山を愛し、
千本松原保存運動を起こしたり富士の歌を多く残すなど、
自然主義文学としての短歌を推進した。
また、情熱的な恋をしたことでも知られており、
喜志子と知り合う前の園田小枝子との熱愛は有名なエピソードである。
出身地・宮崎県では牧水の功績を称え、
1996年(平成8年)より毎年、短歌文学の分野で傑出した業績を挙げた者に対し
「 若山牧水賞 」 を授与している。