多賀公園にある 「 野見山朱鳥の歌碑 」
直方駅の近くに、こんもりとした丘の上に多賀神社があり、
その裏手にある多賀公園の中腹に 「 野見山朱鳥の歌碑 」 がある。
野見山朱鳥は直方市に生まれ、直方を拠点に活躍した俳人である。
戦時下、結核療養中に俳句に親しみ、高浜虚子に認められて戦後の俳壇に一気に躍り出た。
朱鳥は 「 ホトトギス 」 同人として活躍したが、師である虚子の 「 花鳥諷詠 」 に満足せず、
次第に写生とは生命を写すことという 「 生命諷詠 」 を主張するようになった。
晩年は独自の活動を行って、日本の俳句史にひとつの足跡を残した。
火を投げし如くに雲や朴の花
これは昭和21年 ( 1946年 ) 12月に、六百号を迎えた 「 ホトトギス 」 の巻頭を飾った句である。
空に向かって火を投げたように雲が赤く輝いている。
その一方に無心に立つ朴の木の芳しい白い花びらがある。
朱鳥は終生、火を愛した俳人といわれ、火をうたった作品が多い。
また、いったんは画家の道を志して上京したが、病魔に阻まれて挫折した経験を持っている。
その火は絵画的で、優れた情景描写であると同時に、生命感の表出でもあるといわれている。
弧の句碑は、朱鳥が亡くなって二年後の昭和47年 ( 1972年 ) に直方市の多賀公園に建てられたもので、
句碑の裏には 「 苦悩や悲哀を経て来なければ魂は深くならない 」 という一節が刻まれている。
朱鳥は、この魂の叫びを俳句に定着させるかに一生をかけたといってもいいだろう。
野見山朱鳥、本名 : 野見山正男。
大正6年 ( 1917年 ) 直方市に生まれる。
鞍手中学 ( 現・鞍手高校 ) を卒業後、3年間闘病生活を送る。
その後、上京して就職し、その傍らで画家を目指したが、病気が再発する。
昭和17年 ( 1942年 ) から療養生活に入る。
昭和24年 ( 1949年 ) に 「 ホトトギス 」 同人になり、翌年 『 曼珠沙華 』 を発表。
昭和27年 ( 1952年 ) 俳誌 「 菜殻火 ( ながらび ) 」 を主宰した。
昭和45年 ( 1970年 ) 52歳で没する。
主な作品に句集、 『 天 馬 』 『 荊冠 ( けいかん ) 』 『 運 命 』 、
俳論集、 『 純粋俳句 』 『 俳句への招待 』 などがある。
没後、 『 野見山朱鳥全句集 』 が刊行された。