今日のpeko地方、午前中はまた、にわか豪雨があって曇りがちでしたが、午後から晴れ間も出て来たのでお洗濯物も干し直して、なんとか乾くというような一日でした。
さて今回は8月3週目の日曜日の「朝日新聞 グローブ」より特集されてた「シベリア鉄道」の記事からのUPです。「シベリア鉄道」って未知の世界で、興味もあって、OL時代の旅行好きの先輩が数年前に、どの箇所かはっきり聞いていないのですが、旅行された折乗ったと、おっしゃっていたのを思い出しながら、就寝前に少しずつ、8月末までで、やっと読み終えた次第なんです。ブログネタ梨の折につき、読まれた方もおられるでしょうけど、お付き合いくださいませ。
「花の都 Moskva」を23時45分に出発(ロシア号だったそうです)して、9259キロ先の「ウラジオストク」までの鉄路を取材された記事が載ってたんですが、このほんとに気の遠くなる距離、(経路によっては距離は異なって9288キロにもなるとか)1891年に建設を始め、1916年に全線開通させたそうで、電化工事も73年かけ2002年に終了したそうです。右の写真は「エカテンブルク」から「ハバロフスク」間を走る「特急44号」で、「ロシア号」とうってかわり、埃の匂いが立ち込め電気スイッチや網棚は何十年も前の仕様で、骨董的価値がありそうだとか・・ロシアの車両や運行設備は耐用年数を過ぎた老朽化率が2002年に60・9%にも達したそうで、新線建設は諦めて更新に取り組んでいるそうです。
夜行列車の発車となれば日本では「撮り鉄」で賑わってるのが常ですが、ロシアでは「鉄ちゃん」の存在感はまだ薄いそうです。国土が広すぎて飛行機の移動が一般的なのも鉄道への関心の薄さの一因、トンネル、鉄橋が相次ぐ日本と違って、だだっ広い平原ばかりの車窓風景が変化に乏しいのも影響してる可能性も否めません。
車両に老朽化が目立つのに↑のような立派な「駅舎」がどこに行っても目立ってるのだそうです。「エカテリンブルク」「イルクーツク」「ハバロフスク」などの主要駅は「城郭か寺院」と見間違えるほどだとか・・左の写真の駅舎は記者が「緑色に輝く宮殿のよう
」で、抜きん出ているという「ノヴォンビルスク駅」です。右の写真は「走る列車の写真を・・」と記者が「バイカル湖」に面した「スリュジャンカ」~「バイカリスク」間の高台で日焼けしながら撮った「貨物列車」で、4時間待ってる間に上り下りそれぞれ、5分から10分おきに通過していくのは「貨物」ばかり、東行き旅客車は一本も通らずで、撮影を想定していなかった西行きが2本あっただけだそうです。
車窓最大のハイライトの↑「バイカル湖」森林と原野の比較的短調な風景が一変してからの、この静かに澄んだ湖面は以後3時間
にわたって列車の左側に寄り添ってくれるそうです。写真中は「ハバロフスク」郊外にある「子供鉄道」です。お申の電車ではなくて客を乗せて街中を走るれっきとした狭軌の鉄道だそうです。10~18歳の少年少女50人が4交代で運行に関わっているそうです。鉄道会社への就職や鉄道専門学校への進学に有利だとか・・
いよいよ極東地方の二大都市「ハバロフスク」から「ウラジオストク」へは、イルカのロゴが描かれたビジネス特急「大洋」を意味する「オケアン号」で一晩過ごした夜明け後7時には、シベリア鉄道初の「海」がみえるそうです。「大洋」たる「日本海」です。その後1時間ほどで潮風香る「ウラジオストク」到着です。ホームには終点を示す碑が立っていて碑文には・・・「大シベリア鉄道ここに終わる」とあったそうです。
戦前は日本の「与謝野晶子」や「林芙美子」などの文化人が「シベリア鉄道」を利用して欧州へ渡ったということですが、航空機が整備されてからも、貧乏な若者たちがこの鉄道で、パリ、ロンドンを目指したようで、五木寛之の小説「青年は荒野をめざす」などに描かれ、全線乗車がブームにもなったことがあるとか・・(私がもし男性だったらきっと乗車してたと思います。)
最初はシベリア鉄道という見出しに心惹かれて読み進んだのですが、記事には他にも「うねる東へのベクトル」「日本との深いゆかり」「ソ連の遺産(単一都市 バイカリスク)の苦悩」「守れるかバイカル湖の自然」等等、ロシアの過去から今が事細かく書かれていまして、とても興味深く読んだ次第です。