Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

葡萄棚の下の金曜日

2006-06-28 | 
去る金曜日は、戸外で食事をした。夕立の恐れのない、穏やかで健康的な気持ちの良い一時であった。木陰は蒸し暑くも肌寒くもない、青空の夕刻。

ガーデンは適当に賑わっていた。丁度戸口で入れ替わりに出て行った先客のあとに都合良く滑り込む。そしてとりあえず、炭酸水割りのリースリングを、隣町から歩いて来てのどが渇いたと、半リッターの所謂ショッペングラスで注文する。お品書きをしっかりと学習して、煮こごりと牛の煮たものを食べようかと給仕に内容を訊ねてみた。牛肉が生暖かい事もあるからだ。暖かいのは付けあわせのジャガイモだけだった。それならばどうしても暑い日のためにこれを取っておいて、揚げ物にしようとなった。

このテーブルの担当は、馴染みのひょろ長い娘であった。棚となっている葡萄の木の樹齢を訊くと、彼女は「とても古いよ。」と言う。どのように古いのかと念を押すと、「私より、年いっているのは間違いないよ。」と説明するのだ。そうなると、どうしてもこの女の齢に興味が行く。

彼女の印象は、上に書いたような身体的特徴と一種独特の情感的な沿いにあって、どこか体がふらふらと左右に揺れるような印象と似たような対人関係でのかみ合いが、給仕を受ける人によっては忘れられないかもしれない。ここのお店の給仕係の三人、大ベテラン格のおばさんと中堅の女性、そしてこの彼女のどれも良い。ここの町がカトリック共同体である事を、なんとなく思い出させる。

さて、彼女の年齢は、壁崩壊に伴ってザクセン・アンハルトから十三歳の時に家族に連れられて出てきたと言うから察しがつく。「この店のホームページにあなたの写真が出ていたね。」と言うと、「そう、ここに勤めるようになって、五年経つのよ。」と。そしてその時分の彼女の印象を手繰り寄せる。ザクセンからあちらにかけての女性に多い赤が勝った茶系の髪に、こじんまりとした顔立ち。人あたりに、どこかはにかみのような表情が上体のゆれと共にするっと抜けていくような感じ。逆算できる実年齢からすると更に数年も若いおぼこ娘の印象が重なる。

東独で教育を受けたとまで言えない若い世代の人たちと知らぬうちに話すことも多い。どうも共通しているある種の用心深さがある。これがどこから来るのかは分からない。社会の中での家族関係にもあるような気もすれば、民族的なものがあるような気もする。オーダー河とエルベ河の間に住みついた人たちである。

その土地柄を思い浮かべて酔いで口の回らぬうだうだとした話に付き合ってくれるのが、流石に妙齢の女性である。こちらもそうした可愛いい好意に甘えながら、訊かれるままについつい自分の要らぬ事まで話してしまう。そして酔いが覚めるに従って自らに嫌悪感湧き起こる中年男である。

葡萄の枝の皮の捲れたつるつるした部分を撫でながら、「これは、すらっとしてあなたのようですね。」と振る。すると彼女は、嫌な顔を微塵も見せずに「そう、ひょろひょろとしたのは私の家系なの。皆、同じ感じ。」と、語ってくれた。
コメント (2)
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