Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

権力ある者をその座から

2007-02-08 | 雑感
車のラジオで、ヘッセン第二放送を聞いた。イタリアのセリエAの人身事故を一時間の特集としてプログラムを組んでいた。サポーターの暴動で警官が不幸にも命を落した。それに対して大臣は、「サッカーは産業でありこの犠牲もその一つである」と語った。その激しく響く生の声を、ラジオは再三に渡って流した。

工業先進国の国民は、これを聞いて「真実」とは思いながら、虚を衝かれる思いがするに違いない。社会学者は言う。これはサッカーとは無関係の事件であり、それは社会的な現象であると。つまり、サッカー自体がこうした社会不満の捌け口としてのヴェンチレーター機能を果たしているので、その意味から社会的機能を認める事は出来るが、サッカー興行にはマフィアや政治家の繋がりがあって、それを含めての評価に言及した。

イタリア最古の新聞のベテラン記者は、イタリアにおけるサッカーのサポーターは激しく党派性をもっており、ムッソリーニの残党から極左までが其々の贔屓チームをもって対決しているので、セリエAのサポーターは政治性が高いと言う。

ターゲスツァイトングのイタリア特派員は、「ドイツでもケムニッツのサポーターなどは失業者が主体で、その状況は問題が多いが、サポーターに対してその応援を企画する行政の援助などが成果を挙げていて、実力では負けているがブンデスリーガーの方がセリエAよりも状況は良い」と報告した。

またプリミエリーグは、入場料を上げる事によって失業者をスタジオから〆出して、 健 全 な家族連れへと顧客層をシフトさせ、また三千人に上るフーリガンを旅行禁止として国内に封印したことで成果が出たとしている。

しかし、社会不満のヴェンチレーターとして機能しない、もしくは興奮の無いサッカーの応援などは有り得ないとする意見からすれば、上の大臣の発言は正論である。今後、どのような形で、リーグの試合が再開するか注目されている。

確かに、以前は日本のプロ野球阪神タイガースの試合なども野次がとばされ、物が投げ込まれた無法者の発散の場所となっていたが、お行儀が良く飼いならされたスポーツ興行は結局は人気が落ちて行くのである。商業的な利潤が優先されるとき、社会的な機能が脱落して行くのは当然だからである。つまり、社会的な不満は、それを発散させる重要なヴェンチレーターを失い、弱者へと向けられて、より陰湿で大きな社会問題や不安へと転換して行くのである。

モンテヴェルディーの「処女マリアのための夕べの祈り」をフランクフルトで聞いて来た。作曲家が1613年ヴェニスのサンマルコ寺院の音楽長応募の試験に出した曲である。この曲の終曲「マグニフィカト」は、新約聖書ルカスによる福音1.46-55「マリアの賛歌」によっている。

主はその腕で力を振るい、
思い上がる者を打ち散らし、

権力ある者をその座から引き降ろし、
身分の低い人を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、
富めるものを空腹のまま追い返されます。

Fecit potentiam in brachio suo:
Disperisit superbos mente cordis sui.

Deposuit potentes de sade: et exaltavit humiles,
Esurientes implevit bonis:
Et divites dimisit inanes.

これはイデオロギーでもなんでもない。世の摂理なのであろう。
コメント
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