パリでの地球温暖会議に因んで幾つかの新聞記事を読んだ。環境問題に関心は強いが、地球温暖化問題には実は素朴な疑問を以前からもっている。それをこれらの記事は回答せずして、解いてくれる。
一つ目は、今回の報告書の作成者で気象学者ペーター・レムケが文化欄に書いた物である。そこでは、数字を挙げてのシミュレーションが示されて、ミクロの視点から世界気象の変化を捉えている。お馴染みの学術的報告である。
二つ目は、米国の学者がハリケーンの異常気象を軸として、京都議定書の基本となるような学術的報告書に揺さぶりを掛けて、骨抜きにしようとしているとする観測である。これも既に馴染みのある事象であるが、米国を筆頭とするパシフィック地域の諸国は如何に自由競争力を是として解決策を探ろうが、こうした学術的な撹乱作戦ほど性質の悪いものはない。
そこで三つ目は、マクロな視点を啓いて貰うこととなる。先ず何よりも一万二千年以前の氷河期の終わりから次の氷河期への橋渡しとして考える。つまり、現在の温暖化はその中での経過的一現象である。当然ながら中世から近世への社会経済的変化を齎した小氷河期への考察もここに含まれる。
その当時、現在の多くの主要都市の土壌は厚い氷に覆われて、水平線が七十メートル以上低かった、多くの半島は広く、黄金橋の掛かるサンフランシスコ湾は歩いて渡れ、ベーリング海峡が繋がっていた頃の状況とその後のホモサピエンスの発達へと、気象の大変動の齎すものを考える。
こうした文字通り長期的な展望において、慢性的な温暖化の問題を考察する場合と、我々が直面している短期的な気象変動とは別けて考える合理性を示している。
つまり、急激な温暖化現象は短期的な現実問題として、対処策を即刻履行しなければいけないと京都議案書は語っている。そして、その問題は、そもそも期間的に該当する産業革命以後(それは小氷河期の終焉にも当たる)の「近代」の見直しに違いない。そこでは時間あたりの変化量に注目して、社会が対応出来無い、人為的な急激な環境の変化である「発展」が全ての元凶となっているのである。これは地球全体の量のマクロの問題では無いと理解できる。
嘗て無いほどの急激な変化を近代工業化社会が齎したには相違なく、だから現在の状況が新たな未成熟な環境技術の投入という対処法では防げないのは明白である。要するに、この問題はミクロな気象学的な問題でなくて、実は世界観の問題なのである。それも長期的な展望に立ったそれではなくて、短期的な解決策が要求されているそれなのである。
それ故に、新世界の古色蒼然とした近代イデオロギーが、どのような世界像を目指しているのかを訝る。そのイデオロギーの成果が、南北問題と貧困を解決して、工業先進国の生活の質が上昇するなど、いまや誰も信じていないのではなかろうか?仮に新技術の早急な開発によって目標値に近づけることがあったにせよ、エントロピーの更なる急激な増大は避けられない。
エネルギー排出の多い大都会は、灼熱化してエアーコンディショナー無しでは生活出来なくなり、避暑へと航空機で旅行して、さらなるエネルギーと時間を消費するとき、そしてその生活の一方的に低下する質を吟味するとき、上のイデオロギーには価値が全く無い事を知る。
人生哲学と大げさな事を言う必要は無い、一人一人のライフスタイルの問題なのである。分かっているのは、現在の消費社会の存続は不可能で、それが齎す地球環境の急激な変化の前に崩壊の危機にあることである。
一つ目は、今回の報告書の作成者で気象学者ペーター・レムケが文化欄に書いた物である。そこでは、数字を挙げてのシミュレーションが示されて、ミクロの視点から世界気象の変化を捉えている。お馴染みの学術的報告である。
二つ目は、米国の学者がハリケーンの異常気象を軸として、京都議定書の基本となるような学術的報告書に揺さぶりを掛けて、骨抜きにしようとしているとする観測である。これも既に馴染みのある事象であるが、米国を筆頭とするパシフィック地域の諸国は如何に自由競争力を是として解決策を探ろうが、こうした学術的な撹乱作戦ほど性質の悪いものはない。
そこで三つ目は、マクロな視点を啓いて貰うこととなる。先ず何よりも一万二千年以前の氷河期の終わりから次の氷河期への橋渡しとして考える。つまり、現在の温暖化はその中での経過的一現象である。当然ながら中世から近世への社会経済的変化を齎した小氷河期への考察もここに含まれる。
その当時、現在の多くの主要都市の土壌は厚い氷に覆われて、水平線が七十メートル以上低かった、多くの半島は広く、黄金橋の掛かるサンフランシスコ湾は歩いて渡れ、ベーリング海峡が繋がっていた頃の状況とその後のホモサピエンスの発達へと、気象の大変動の齎すものを考える。
こうした文字通り長期的な展望において、慢性的な温暖化の問題を考察する場合と、我々が直面している短期的な気象変動とは別けて考える合理性を示している。
つまり、急激な温暖化現象は短期的な現実問題として、対処策を即刻履行しなければいけないと京都議案書は語っている。そして、その問題は、そもそも期間的に該当する産業革命以後(それは小氷河期の終焉にも当たる)の「近代」の見直しに違いない。そこでは時間あたりの変化量に注目して、社会が対応出来無い、人為的な急激な環境の変化である「発展」が全ての元凶となっているのである。これは地球全体の量のマクロの問題では無いと理解できる。
嘗て無いほどの急激な変化を近代工業化社会が齎したには相違なく、だから現在の状況が新たな未成熟な環境技術の投入という対処法では防げないのは明白である。要するに、この問題はミクロな気象学的な問題でなくて、実は世界観の問題なのである。それも長期的な展望に立ったそれではなくて、短期的な解決策が要求されているそれなのである。
それ故に、新世界の古色蒼然とした近代イデオロギーが、どのような世界像を目指しているのかを訝る。そのイデオロギーの成果が、南北問題と貧困を解決して、工業先進国の生活の質が上昇するなど、いまや誰も信じていないのではなかろうか?仮に新技術の早急な開発によって目標値に近づけることがあったにせよ、エントロピーの更なる急激な増大は避けられない。
エネルギー排出の多い大都会は、灼熱化してエアーコンディショナー無しでは生活出来なくなり、避暑へと航空機で旅行して、さらなるエネルギーと時間を消費するとき、そしてその生活の一方的に低下する質を吟味するとき、上のイデオロギーには価値が全く無い事を知る。
人生哲学と大げさな事を言う必要は無い、一人一人のライフスタイルの問題なのである。分かっているのは、現在の消費社会の存続は不可能で、それが齎す地球環境の急激な変化の前に崩壊の危機にあることである。