「処女マリアのための夕べの祈り」について、何かを書くのは容易ではない。ルネッサンスからバロックへの移行を果たした大作曲家モンテヴェルディを、オペラの歴史のなかでそれを位置付けるよりも難しい。
この曲は1610年、時の法王庁に提出されて、出版後の1613年にヴェニスのサンマルコ寺院音楽長への採用試験で上演された。それからも判るように宗教的とはしながらも、当時の現代的なモードが存分に取り込まれているのは、現在ではビートルズのサウンドがゴスペロに取り込まれているようなものであろうか。
ミサのように聖体拝領を伴わない礼拝である「夕べの祈り」のために、「賛歌」が交唱やレスポンスされる当時のカトリックの式次第がこの楽曲の基本にある。しかしグレゴリア聖歌に源を求めて、またはルネッサンスの多声音楽として、または器楽を通奏低音としてそして装飾としてのバロック盛期への橋渡しの音楽として捉えても片手落ちとなる。
そうした様式の混合から、この大曲を分析的に演奏再現してその真価を聴衆に知らしめようと試みても、その極一部が理解される事になるだけに違いない。
グラーツの教会で録画された指揮者アーノンクールの演奏実践などはその最たるもので、一方では痛く感心するものである。そこでは、楽譜に示されているように交唱が楽曲を挟むようにして取り交わされる。しかし、なぜかその演奏にはあまりに立派過ぎる歌手陣が美声を聞かせ、些か場違いな感じがする。それでも、演奏実践へと臨む見識の確かさと抜群な効果は認めなければいけない。
モンテヴェルディーの解釈は、オペラにおいてもベルギーのカウンターテノール出身の指揮者ルネ・ヤコブスが、現代における評価を上の指揮者と分け合っている。今回、ヤコブス指揮のこの大曲の演奏実践に接して、上記したような作曲の驚くばかりの多様さに圧倒されがちな過ちを認める事が出来た。
それは、やはりこの両者が張り合ったオペラ「ポッペアの戴冠」などでの後者の演奏実践の印象と変わらないかもしれない。特筆すべきは、演奏会場の音響も手伝ってか、言葉が明確に発声されて聞きとれる事で、これはややもするとサンマルコ教会のヴェネチア楽派の二重合唱や掛け合いなどの面白味を追及するばかりにいつも疎かにされて失われているものである。
例えば、やはりお馴染みのエコー効果などは、客席と反対側を向いてヤッホーと手を当てる事でその音響効果を模倣していた。こうした面白味は、モンテヴェルディーにおいては、明らかにパロディー精神に基づいて行われたと思わせる数多の箇所の一つであって、決してこの大家がそれらの技法を正面切って問うという趣とは違うのである。
有名なサンタマリアの合唱は、子供ではなく女性のソプラノにして歌われたが、その楽器や合唱の配置や位置選択の視覚的効果は、そのもの新ヴィーン学派の音色旋律に引き継がれるものであったり、二十世紀の群の概念を活かしたストックハウゼンなどの音楽に引き継がれているそのものなのである。
つまり、ここでは多声音楽の対位法にせよ、器楽の通奏低音技法にせよ、自家薬籠中のものとして、そこから初めて表現へと踏み込んでいるのである。それを、現代の演奏実践の中で、「賛歌」とその変容を薄っすらと聴衆に提示しながら、その妙味を楽しませる方法が採用されるのである。
馴染みのその「賛歌」が活かされている印象は、決してイタリア風の晴れやかで明るい音色ではない今回の演奏から、例えばチロル地方の祝日の漆黒に浮かび上がる墓地の蝋燭の光を思い出させるような思わぬ効果が表れていた。それは、この作曲の文化的背景が決して南国イタリアのそれではないことを想像させるのである。
さらに言及すれば、オーストリアの交響文化へとそれから二百五十年ほど伏流として流れて、ローマンカソリックの音楽文化が体位法の教授で交響曲作家のアントン・ブルックナーに突如として表れたような現象を思い起こさせる。それは決して、その不協和音の強調やぶつかり、装飾進行などの部分に表れるだけでなくして、本質的な表現意志としても表れているのである。こうした観点は、同じくモンテヴェルディーで名を馳せた、なぜかいつも思い違いの激しいケンブリッジの音楽学部出身の英国人指揮者の演奏解釈からは到底得られない。
折りからの雪交じりの水曜日の晩の天候故か、大きく六割を越えた程度の悪い入りであったが、その人数比からするとフランクフルトのアルテオパーの大ホールでこれほどに強い歓声を受ける指揮者は珍しい。ベルリンからの合唱も管弦楽もまたソリストも可も不可も無しのレヴェルであるに拘らず、一身に評価を受けたその解釈が、何を隠そう、この曲の真価を示したと言うことなのであろう。
作曲技巧の粋を尽して、尚且つ現場の流行を取り込み、これほどマニエリスムに距離を置いた楽曲を、その内容である「賛歌」を当時の政治社会における文化芸術とした所に、この作曲の偉大さがある。
エコーの技巧を使って、次のように遊ぶこの作曲家は、まるで安物の芸術を揶揄したような所さえある。
Audi coelum, verba mea,
plana desiderio et perfusa g-a-u-d-i-o,
Eco: Audio!
天よ、我が言葉を聞き給え
切望と喜びに満ちた。
エコー:聞いておる!
-こうして全員一致で推挙されて、採用試験に合格した。
この曲は1610年、時の法王庁に提出されて、出版後の1613年にヴェニスのサンマルコ寺院音楽長への採用試験で上演された。それからも判るように宗教的とはしながらも、当時の現代的なモードが存分に取り込まれているのは、現在ではビートルズのサウンドがゴスペロに取り込まれているようなものであろうか。
ミサのように聖体拝領を伴わない礼拝である「夕べの祈り」のために、「賛歌」が交唱やレスポンスされる当時のカトリックの式次第がこの楽曲の基本にある。しかしグレゴリア聖歌に源を求めて、またはルネッサンスの多声音楽として、または器楽を通奏低音としてそして装飾としてのバロック盛期への橋渡しの音楽として捉えても片手落ちとなる。
そうした様式の混合から、この大曲を分析的に演奏再現してその真価を聴衆に知らしめようと試みても、その極一部が理解される事になるだけに違いない。
グラーツの教会で録画された指揮者アーノンクールの演奏実践などはその最たるもので、一方では痛く感心するものである。そこでは、楽譜に示されているように交唱が楽曲を挟むようにして取り交わされる。しかし、なぜかその演奏にはあまりに立派過ぎる歌手陣が美声を聞かせ、些か場違いな感じがする。それでも、演奏実践へと臨む見識の確かさと抜群な効果は認めなければいけない。
モンテヴェルディーの解釈は、オペラにおいてもベルギーのカウンターテノール出身の指揮者ルネ・ヤコブスが、現代における評価を上の指揮者と分け合っている。今回、ヤコブス指揮のこの大曲の演奏実践に接して、上記したような作曲の驚くばかりの多様さに圧倒されがちな過ちを認める事が出来た。
それは、やはりこの両者が張り合ったオペラ「ポッペアの戴冠」などでの後者の演奏実践の印象と変わらないかもしれない。特筆すべきは、演奏会場の音響も手伝ってか、言葉が明確に発声されて聞きとれる事で、これはややもするとサンマルコ教会のヴェネチア楽派の二重合唱や掛け合いなどの面白味を追及するばかりにいつも疎かにされて失われているものである。
例えば、やはりお馴染みのエコー効果などは、客席と反対側を向いてヤッホーと手を当てる事でその音響効果を模倣していた。こうした面白味は、モンテヴェルディーにおいては、明らかにパロディー精神に基づいて行われたと思わせる数多の箇所の一つであって、決してこの大家がそれらの技法を正面切って問うという趣とは違うのである。
有名なサンタマリアの合唱は、子供ではなく女性のソプラノにして歌われたが、その楽器や合唱の配置や位置選択の視覚的効果は、そのもの新ヴィーン学派の音色旋律に引き継がれるものであったり、二十世紀の群の概念を活かしたストックハウゼンなどの音楽に引き継がれているそのものなのである。
つまり、ここでは多声音楽の対位法にせよ、器楽の通奏低音技法にせよ、自家薬籠中のものとして、そこから初めて表現へと踏み込んでいるのである。それを、現代の演奏実践の中で、「賛歌」とその変容を薄っすらと聴衆に提示しながら、その妙味を楽しませる方法が採用されるのである。
馴染みのその「賛歌」が活かされている印象は、決してイタリア風の晴れやかで明るい音色ではない今回の演奏から、例えばチロル地方の祝日の漆黒に浮かび上がる墓地の蝋燭の光を思い出させるような思わぬ効果が表れていた。それは、この作曲の文化的背景が決して南国イタリアのそれではないことを想像させるのである。
さらに言及すれば、オーストリアの交響文化へとそれから二百五十年ほど伏流として流れて、ローマンカソリックの音楽文化が体位法の教授で交響曲作家のアントン・ブルックナーに突如として表れたような現象を思い起こさせる。それは決して、その不協和音の強調やぶつかり、装飾進行などの部分に表れるだけでなくして、本質的な表現意志としても表れているのである。こうした観点は、同じくモンテヴェルディーで名を馳せた、なぜかいつも思い違いの激しいケンブリッジの音楽学部出身の英国人指揮者の演奏解釈からは到底得られない。
折りからの雪交じりの水曜日の晩の天候故か、大きく六割を越えた程度の悪い入りであったが、その人数比からするとフランクフルトのアルテオパーの大ホールでこれほどに強い歓声を受ける指揮者は珍しい。ベルリンからの合唱も管弦楽もまたソリストも可も不可も無しのレヴェルであるに拘らず、一身に評価を受けたその解釈が、何を隠そう、この曲の真価を示したと言うことなのであろう。
作曲技巧の粋を尽して、尚且つ現場の流行を取り込み、これほどマニエリスムに距離を置いた楽曲を、その内容である「賛歌」を当時の政治社会における文化芸術とした所に、この作曲の偉大さがある。
エコーの技巧を使って、次のように遊ぶこの作曲家は、まるで安物の芸術を揶揄したような所さえある。
Audi coelum, verba mea,
plana desiderio et perfusa g-a-u-d-i-o,
Eco: Audio!
天よ、我が言葉を聞き給え
切望と喜びに満ちた。
エコー:聞いておる!
-こうして全員一致で推挙されて、採用試験に合格した。