「硫黄島からの手紙」がドイツでも封切りされたようである。「親父たちの星条旗」に二週間遅れての上映らしい。二本立てで観たかったと言う評者も、戦争映画を続けて観たい者は少ないだろうと理解していたようであるが、商業的な戦略なのであろうか。
既に様々な反響を見たり読んだりしているので、今更この比較的好評なハリウッド作品の批評にそれほど大きな関心はないが、この文化欄の記事を読むとなかなか面白い。今まで聞いていたことと異なる事象が示されているからである。
「親父たちの星条旗」では、生き残りの仲間の死において、彼らは自らの国のために戦争へと駆り出されて、彼らの友のために命を落す。
それに対して、「日本人は、天皇のために戦争へと駆り出されて、彼のためにだけ命を落す」と観る。
これは、ネット等で最近流行りの「大日本帝国軍兵士は、彼らの妻や子供や家族や友を護るために名誉の死を選んだ」と言うアメリカナイズされ美化された論調を真っ向から否定している。一体何時から日本人はアメリカ人だったのだろうか?同じ映画作品においても、こうした見解の相違が生まれていて大変滑稽である。
特に今回の作品の場合、この批評は、「日本兵は、天皇陛下のために、戦においても、例え自決としても、独裁者のために寄与し、ただただ怪しい伝統の故に死ぬ姿勢を、ここに脇役として観る事が出来る」にも拘らず、「クリント・イーストウッドは、我々にそれを判断保留させる。その点において驚愕すべき作品である」としている。
つまり、想像するに、戦場から家族へ宛てた手紙が示すものは、言われるような「自らの義務への忠誠心」としては決して捉えられていなくて、そのもの所謂国体への狂信的な自己犠牲の死への礼讃の結果であるとされている。もちろん、それが中心に描かれていないばかりか、隅に追いやられているとここで批判されている事から、この作品の出来栄えが逆に想像出来る。唯一つ、胸に手榴弾を構えて自爆するシーンだけが、あまりに情動的に描かれているに過ぎないとしている。
そこで、面白いと思わされるのが、主役であるグレゴリー・ペック風と称される渡辺謙演じる米国風の生活感や英国紳士とした将校達が、またあまりにも善良そうな市井の人々が、大日本帝国イデオロギーとその徹底した思想統制教育のなかで、現在のイスラムのカミカゼテロリストと殆ど差異無く映る事実である。
その解析は、このジャンルであるハリウッド映画の枠を遥かに越える話題であり、日本思想史の主題でもある。もちろん新生民主主義国合衆国に対して帝国日本の国体とイスラム法の支配する社会を比較する意味はあまり無いであろうが、社会システムとその精神文化の葛藤として、丸山真男が1961年に次ぎのように記している:
…そこに含まれた実質的問題は歴史的に見ても、また今日の問題としてもきわめて重要な意味を持っている。すなわち歴史的には…、また同時にそれは戦後において「平和論」から「昭和史論争」を経て「実感信仰」の問題に至る、社会科学あるいは歴史学的把握と文学的把握の交差・対立の前奏曲ともみられるのである。
これは「近代日本の思想と文学」*と題した文章からの引用であるが、直に気がつくように、同じ作品に対する全く違った日本での反応こそが、この現象の継続を証明しているとは言えないか。
端的に発言すれば、国体のようなシステムは、社会の強者にとっては、都合の良い支配構造を意味するだけで本当はどちらでも良いのであって、強者はそのようなシステムが存在しなくても、少しばかり利口であれば何処でも十分に生きていけて、自らのエゴに従いなんらそのような精神的な義務感などを持たないのである。問題は、社会的弱者こそがそうしたシステムの破綻において生存が脅かされて、尚且つ義務感を押し付けられる境遇に追いやられる摂理である。これらの映画は、こうして翻弄されて貴重な命を落す多くの人々に捧げられているのであろう。この批評は最後に次のように締めくくっている。
「あらゆる世界中の兵士のその人格の死に対して、その個性に目を向け、国々が戦い、個人が死ぬのを示す事は、現代の戦争映画の常套であるが、天皇の名誉のために無駄死する敵に対して、全くそれと同じ事をしたのは今回が初めてである」。
参照:
Requiem für eine Schlacht von Verena Lueken, FAZ vom 21.9.2007
Emotionale Wucht von Peter Körte, FAZ vom 17.1.2007
*丸山真男著 「日本の思想」より
既に様々な反響を見たり読んだりしているので、今更この比較的好評なハリウッド作品の批評にそれほど大きな関心はないが、この文化欄の記事を読むとなかなか面白い。今まで聞いていたことと異なる事象が示されているからである。
「親父たちの星条旗」では、生き残りの仲間の死において、彼らは自らの国のために戦争へと駆り出されて、彼らの友のために命を落す。
それに対して、「日本人は、天皇のために戦争へと駆り出されて、彼のためにだけ命を落す」と観る。
これは、ネット等で最近流行りの「大日本帝国軍兵士は、彼らの妻や子供や家族や友を護るために名誉の死を選んだ」と言うアメリカナイズされ美化された論調を真っ向から否定している。一体何時から日本人はアメリカ人だったのだろうか?同じ映画作品においても、こうした見解の相違が生まれていて大変滑稽である。
特に今回の作品の場合、この批評は、「日本兵は、天皇陛下のために、戦においても、例え自決としても、独裁者のために寄与し、ただただ怪しい伝統の故に死ぬ姿勢を、ここに脇役として観る事が出来る」にも拘らず、「クリント・イーストウッドは、我々にそれを判断保留させる。その点において驚愕すべき作品である」としている。
つまり、想像するに、戦場から家族へ宛てた手紙が示すものは、言われるような「自らの義務への忠誠心」としては決して捉えられていなくて、そのもの所謂国体への狂信的な自己犠牲の死への礼讃の結果であるとされている。もちろん、それが中心に描かれていないばかりか、隅に追いやられているとここで批判されている事から、この作品の出来栄えが逆に想像出来る。唯一つ、胸に手榴弾を構えて自爆するシーンだけが、あまりに情動的に描かれているに過ぎないとしている。
そこで、面白いと思わされるのが、主役であるグレゴリー・ペック風と称される渡辺謙演じる米国風の生活感や英国紳士とした将校達が、またあまりにも善良そうな市井の人々が、大日本帝国イデオロギーとその徹底した思想統制教育のなかで、現在のイスラムのカミカゼテロリストと殆ど差異無く映る事実である。
その解析は、このジャンルであるハリウッド映画の枠を遥かに越える話題であり、日本思想史の主題でもある。もちろん新生民主主義国合衆国に対して帝国日本の国体とイスラム法の支配する社会を比較する意味はあまり無いであろうが、社会システムとその精神文化の葛藤として、丸山真男が1961年に次ぎのように記している:
…そこに含まれた実質的問題は歴史的に見ても、また今日の問題としてもきわめて重要な意味を持っている。すなわち歴史的には…、また同時にそれは戦後において「平和論」から「昭和史論争」を経て「実感信仰」の問題に至る、社会科学あるいは歴史学的把握と文学的把握の交差・対立の前奏曲ともみられるのである。
これは「近代日本の思想と文学」*と題した文章からの引用であるが、直に気がつくように、同じ作品に対する全く違った日本での反応こそが、この現象の継続を証明しているとは言えないか。
端的に発言すれば、国体のようなシステムは、社会の強者にとっては、都合の良い支配構造を意味するだけで本当はどちらでも良いのであって、強者はそのようなシステムが存在しなくても、少しばかり利口であれば何処でも十分に生きていけて、自らのエゴに従いなんらそのような精神的な義務感などを持たないのである。問題は、社会的弱者こそがそうしたシステムの破綻において生存が脅かされて、尚且つ義務感を押し付けられる境遇に追いやられる摂理である。これらの映画は、こうして翻弄されて貴重な命を落す多くの人々に捧げられているのであろう。この批評は最後に次のように締めくくっている。
「あらゆる世界中の兵士のその人格の死に対して、その個性に目を向け、国々が戦い、個人が死ぬのを示す事は、現代の戦争映画の常套であるが、天皇の名誉のために無駄死する敵に対して、全くそれと同じ事をしたのは今回が初めてである」。
参照:
Requiem für eine Schlacht von Verena Lueken, FAZ vom 21.9.2007
Emotionale Wucht von Peter Körte, FAZ vom 17.1.2007
*丸山真男著 「日本の思想」より