Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

自由の弁証を呪術に解消

2007-11-05 | 文学・思想
連続ラジオ「ファウストゥス博士」第五話は、原作二十一章から始まる。1918年秋の第一次世界大戦の敗北に、プロシアの勤勉と近代技術の粋を集めた帝国主義に、大量の市民を犠牲にした潜水艦の魚雷攻撃やヴェルダンの戦いなどを手短に纏めて、ドイツ帝国の終焉の時を描く。

しかし、なんと言ってもこの回の軸は、近代知の基本にある「神なき世界の秩序への認知」としての「十二の音を使った音楽技法」の発明にある。システムの構築による自由の獲得は、数学・理論物理体系における宇宙の構築であり、認知の限界を築くことによる自由の獲得なのである。

社会文化学者アドルノの知恵を得て、トーマス・マンはそのシステムの価値を少しづつ解明して行く。先ず、ベートーヴェンに見るような技術的秩序によって、主観性が音楽的構造を強化するソナタ形式の展開部を挙げている。その形式のその部分が、つまり主観的ダイナミズムとハイライトの自由圏が、次にブラームスによって客観性へと変化している歴史的構造を言う。

楽聖の変奏は古代芸術の名残りであり、形式の新たな創造の素材となったことを、恐らくその楽聖の後期の作品に示そうとしている。また新古典主義においては音楽は、従来の美辞麗句や形式や残渣であることを断念して、作品の統一がどの部分においても新たな自由を獲得することになるとして、音楽が決して偶然生じたのではなく同素材への固執から多様性へと発展するあらゆる面での経済を齎す秩序となる自由を指し示している。

こうして、「十二の音を使う音楽」のシステムが語られるのだが、魔法陣のように組み合わされるその音のシステムをして、充分に認知出来ない音の動きをして、宇宙の摂理と比較される。当然の事ながら、認識出来る閉じられたもしくは開かれた限界に数学自然科学の分野が広がるように、「未知の芸術的弁償に目覚めること」が認識であるとする。

1940年代前半の執筆であるこの時期にトータルセリアルなシステムが示唆されていて、それはアドルノの実際の文章と比較してみる必要があるが、少なくともモデルとされる作曲家アーノルト・シェーンベルクが1921年の散策中にヨゼフ・ルーファーに語ったものとは大きく異なる。

そして、トーマス・マンは、こうした観念的な思考を、前々回の放送分にあたる原作十二章の登場人物の一人、アナクシマンドロスのイオニアの自然哲学やアリストテレスの影響を受けたピタゴラスの世界観を講義するコロナート・ノンネンマッヒャー教授の思考から伏線を引いていて、間接的ながらそのドグマティックな色合いを、「音楽の呪術的存在を人間的な理性に解き放つ」さらに「むしろ人間的な理性を呪術に解決する」として言い直させる。

この記述は、実際の作曲家シェーンベルクの歴史的実践に基づいた音響学的な自然から逃れられなかった事実とは相反する。しかし、遠からずのこうしたイメージが現在まで生きていることも事実であり、この原作二十二章におけるアードリアン・レーファクューンとゼレニウス・ツァイトブロムの散策風景は、秋の郊外の夕刻の美しい風景に、悪魔の冷気を忍ばせながら、来るべき進展と現実の歴史の破局を準備するに充分な変奏となっている。
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