「魔の山」の「雪」の章は最も重要なエピソードに他ならないが、「ファウストゥス博士」における二十五章の「悪魔との会話」は、全体の折り返し点に位置してここに主題が詰め込まれている。
ラジオ放送で第六回目の最初半分はこのディアローグに費やさされている。その放送プログラム故、原文二十四章からのイタリアのパレストリーナへの男友達との旅が1912年夏と加えられている。その年度の示すものは、充分に分らないが、少なくとも「魔の山」の創作開始とその後の展開を結びつける数字として重要に違いない。
それは、その「魔の山」自体が日本などを筆頭に世界的ベストセラーとなり、ドイツにおいても多くの愛読者をナチス内に抱えていた事実は無視出来ない。その原因の多くは、「教養小説」と呼ばれるものをパロディー化しながらも、主人公の青年をドイツェ・ロマンティックの世界から第一次世界大戦の土豪へと運命的に引き摺り出した終幕を以って、ショーペンハウワーなどの宿命論から逃れられない愛国心を認めてしまったからである。
第二次世界大戦後にも中部ドイツで演説を残している亡命作家トーマス・マンであるが、筆記者が1943年の日付を以って1912年を顧みるこのディアローグに、その経過への見解が全て語られている。
このディアローグの中で、その小さな体と赤毛で薄白い顔をした、トリコロールの横縞の半そでのシャツとチェックのジャケットを羽織り、薄汚い黄色の靴を履き、短めのズボンとスポーツ帽子を耳まで深く被った悪魔との体面風景が、イタリアンカソリック圏におけるものと特記されて、ヴィッテンベルクやヴァルトブルクのことでないと、態々強調されている。19世紀プロテスタンティズムの二項対立化させることで、罪からの贖いと慰めを得る小市民的もしくはデーモンに取り付かれるキルケゴールらの姿勢が暴かれる。つまり、マルティン・ルターにとって悪魔との対決が必要であったように、生粋の古いルターのドイツを母国語とする悪魔なのである。
「そして健康な馬鹿者が、麻痺した文化的エポックである時間を打ち破り、その打ち破られるエポックとカルトが 二 回 も の 野 蛮 に蠢いているのである。なぜならば、野蛮と言うものは、人道とありとあらゆる根本的治癒や市民的洗練の後に来るものであるから」と悪魔は言明して、「そもそも神学と言うものがカルトから離脱した文化であり、その文化は宗教においては、ただの人道や逆説や神秘的な情念と言う徹頭徹尾非市民的な大胆な試みでしかない」と近代の神学に迫る。
この悪魔の見解は、音楽における情緒の見せ掛けは、音楽そのものの自己完結ではなく、過去四百年に渡って存在して来たしきたりでは対応出来なくなったことを並列して、それを踏襲した貴族趣味のニヒリズムに置けるパロディーでしかない事を重ねて言明する。ここで主人公は怒り心頭これを否定するが、これをして、「魔の山」の主人公ハンス・カストロップの悪夢とそこからの覚醒を、改めて作者の自虐的な贖罪としている。
この章の特徴は、上で示されたように将来から過去を見ていて、前の章よりもその前に起こっていることが語られていることである。こうした時間による挟みこみの技法は必ずしも感心するものではないが、現実の時と創作における時を考える場合に効果を発揮するかも知れない。そして、ここだけをとり出すと、まるでアドルノの否定弁証法の記述となっている。
金曜日は79年目のクリスタルナハトであった。政治的な社会的な贖罪は進んでいるが、「魔の山」に代わってもしくは重ねてこうした作品が読まれるようになるのかどうか、それまでは本質的な問題は積み重ねられていくだけなのである。
ついでながら付け足しておくと、この前の五回目の放送では二十三章のミュンヘンでの社交界が描かれている。その親交関係が後半にここでの悪魔とのディアローグの中身を具体的に見せて行くことになる。
参照:
親愛なるキーファー様 [ 文学・思想 ] / 2007-11-09
自由の弁証を呪術に解消 [ 文学・思想 ] / 2007-11-05
八月の雪のカオス [ その他アルコール ] / 2006-08-22
ファウスト博士の錬金術 [ 音 ] / 2006-12-11
オカルト団ミュンヘン宇宙 [ 文化一般 ] / 2007-08-18
IDの危機と確立の好機 [ 文学・思想 ] / 2005-04-20
ラジオ放送で第六回目の最初半分はこのディアローグに費やさされている。その放送プログラム故、原文二十四章からのイタリアのパレストリーナへの男友達との旅が1912年夏と加えられている。その年度の示すものは、充分に分らないが、少なくとも「魔の山」の創作開始とその後の展開を結びつける数字として重要に違いない。
それは、その「魔の山」自体が日本などを筆頭に世界的ベストセラーとなり、ドイツにおいても多くの愛読者をナチス内に抱えていた事実は無視出来ない。その原因の多くは、「教養小説」と呼ばれるものをパロディー化しながらも、主人公の青年をドイツェ・ロマンティックの世界から第一次世界大戦の土豪へと運命的に引き摺り出した終幕を以って、ショーペンハウワーなどの宿命論から逃れられない愛国心を認めてしまったからである。
第二次世界大戦後にも中部ドイツで演説を残している亡命作家トーマス・マンであるが、筆記者が1943年の日付を以って1912年を顧みるこのディアローグに、その経過への見解が全て語られている。
このディアローグの中で、その小さな体と赤毛で薄白い顔をした、トリコロールの横縞の半そでのシャツとチェックのジャケットを羽織り、薄汚い黄色の靴を履き、短めのズボンとスポーツ帽子を耳まで深く被った悪魔との体面風景が、イタリアンカソリック圏におけるものと特記されて、ヴィッテンベルクやヴァルトブルクのことでないと、態々強調されている。19世紀プロテスタンティズムの二項対立化させることで、罪からの贖いと慰めを得る小市民的もしくはデーモンに取り付かれるキルケゴールらの姿勢が暴かれる。つまり、マルティン・ルターにとって悪魔との対決が必要であったように、生粋の古いルターのドイツを母国語とする悪魔なのである。
「そして健康な馬鹿者が、麻痺した文化的エポックである時間を打ち破り、その打ち破られるエポックとカルトが 二 回 も の 野 蛮 に蠢いているのである。なぜならば、野蛮と言うものは、人道とありとあらゆる根本的治癒や市民的洗練の後に来るものであるから」と悪魔は言明して、「そもそも神学と言うものがカルトから離脱した文化であり、その文化は宗教においては、ただの人道や逆説や神秘的な情念と言う徹頭徹尾非市民的な大胆な試みでしかない」と近代の神学に迫る。
この悪魔の見解は、音楽における情緒の見せ掛けは、音楽そのものの自己完結ではなく、過去四百年に渡って存在して来たしきたりでは対応出来なくなったことを並列して、それを踏襲した貴族趣味のニヒリズムに置けるパロディーでしかない事を重ねて言明する。ここで主人公は怒り心頭これを否定するが、これをして、「魔の山」の主人公ハンス・カストロップの悪夢とそこからの覚醒を、改めて作者の自虐的な贖罪としている。
この章の特徴は、上で示されたように将来から過去を見ていて、前の章よりもその前に起こっていることが語られていることである。こうした時間による挟みこみの技法は必ずしも感心するものではないが、現実の時と創作における時を考える場合に効果を発揮するかも知れない。そして、ここだけをとり出すと、まるでアドルノの否定弁証法の記述となっている。
金曜日は79年目のクリスタルナハトであった。政治的な社会的な贖罪は進んでいるが、「魔の山」に代わってもしくは重ねてこうした作品が読まれるようになるのかどうか、それまでは本質的な問題は積み重ねられていくだけなのである。
ついでながら付け足しておくと、この前の五回目の放送では二十三章のミュンヘンでの社交界が描かれている。その親交関係が後半にここでの悪魔とのディアローグの中身を具体的に見せて行くことになる。
参照:
親愛なるキーファー様 [ 文学・思想 ] / 2007-11-09
自由の弁証を呪術に解消 [ 文学・思想 ] / 2007-11-05
八月の雪のカオス [ その他アルコール ] / 2006-08-22
ファウスト博士の錬金術 [ 音 ] / 2006-12-11
オカルト団ミュンヘン宇宙 [ 文化一般 ] / 2007-08-18
IDの危機と確立の好機 [ 文学・思想 ] / 2005-04-20