日本の戦後民主主義もしくは占領政策の中での教育について東アジア研究所が纏めた冊子があった。小冊子であり内容に興味はなかったので持ち帰らなかったが、その根幹は家庭の教育などの教養によらない教育の大衆化であり、社会主義者の教育姿勢と両輪のようになって進められた教育政策は、米国式の実学による高学歴化への経済社会政策であったと考える。そうした教育の大衆化は、全世界的な傾向であって民主主義政策の根幹にあると同時にそれだけでは民主主義教育にはならないのは当然である。
BLOG「壺中山紫庵」にて「擬似的な二世・三世的な微温状況」として、「少なくとも出世できるのは、二世・三世に限られつつあるという現実が一層、歴然たるものになっている」と本来ならば上記のような大衆化社会が描く理像像とは正反体の現実認識が記されている。社会のあり方を考える重要な視点であると思われる。
同時にネットにおいて小泉元首相の主導で一院制議論へと選挙戦略上の撹乱策戦が始まったと報道されている。現在の日本社会の格差社会を明確にさせた張本人である政治家であるが小ブッシュとは異なり未だに国民に人気があるらしいのでどんな政治家なのだろうかと思う。
なるほど大衆化された国民の世継ぎ政治家等へのルサンチマンを巧く使う戦略で、経費削減や定数削減で従来から言われていた第二院不要論を挙げればベクトルを変換させてそこに不満が集約されて扇動できると考えているのだろう。郵政民営化などのアドバルーンの上げ方と非常に良く似ていてワンセンテンス・ポピュリズムとして、短絡化を押し進めた戦後民主主義教育の衆愚教育の成果を巧く利用している。
英国の貴族院のようなもしくは三部会のような機能が戦後民主主義から消えて仕舞いながらも上のような社会への現実認識が進んでいる状況からすれば、もし一院制を実施するならば、職業の自由に反する「世継ぎ議員の禁止」や「緑の党」が嘗て提案したような「議員勤続年数の制限もしくは当選回数の上限」もしくは「職業政治家の禁止」の条項を設けない限り、権力の集中が強化される。まさに大衆のルサンチマンの利用しながら、定員を減らすなどして権力の集中を意図した立案である。
そうした本質的な議論を第四の権力者達が展開しないのはまさに微温状況の社会であり、エリート教育がなされていない戦後大衆化を象徴する。なにも最近の総理大臣などが軒並み日本人の痴呆化幼児化を象徴しているだけではないのである。
裁判員制度の問題も色々とBLOG「Barl-Karthの日記」で読んだが、ああした市民を代表して裁定する委員を満遍なく選ぶ事が可能ならば、議論よりも採決とコモンセンスを重視した直接民主主義の感覚を取り入れた第二院を構成すれば良いのではなかろうか。各国会毎に無作為に選ばれた有権者が法案の可否を、公聴会風に開かれた第二院で採決するのである。現在問題となっているような給付金も否決されて、なにも国民投票までも必要としない案件に一般国民の意思を直接反映する事が出来るのではなかろうか。
裁判院制度の実態は、既に死体遺棄事件のなによりも商業的な利害を重視した報道姿勢やその裁判方法の結婚披露宴式ショー化への変革に表れているように、伝統的な被害者人格の崩壊と人間の尊厳の矮小化を押し奨める政策のようである。日本がこうした文化的な荒廃と退行現象を著しく示しているのは上記したような教育の大衆化の賜物に他ならない。
参照:
アナクロ“麻生マンガ【世襲内閣】”と“見得きり【世襲男・小泉】” (toxandoriaの日記)
「ナチスと映画」飯田道子 (Mani_Mani)
勲章撫で回す自慰行為 [ BLOG研究 ] / 2008-07-26
外人への機会均等違反 [ アウトドーア・環境 ] / 2008-07-13
掛け値無しのLA大舞台 [ マスメディア批評 ] / 2008-02-26
悪は滅びて、善は光り輝く [ 歴史・時事 ] / 2005-09-05
BLOG「壺中山紫庵」にて「擬似的な二世・三世的な微温状況」として、「少なくとも出世できるのは、二世・三世に限られつつあるという現実が一層、歴然たるものになっている」と本来ならば上記のような大衆化社会が描く理像像とは正反体の現実認識が記されている。社会のあり方を考える重要な視点であると思われる。
同時にネットにおいて小泉元首相の主導で一院制議論へと選挙戦略上の撹乱策戦が始まったと報道されている。現在の日本社会の格差社会を明確にさせた張本人である政治家であるが小ブッシュとは異なり未だに国民に人気があるらしいのでどんな政治家なのだろうかと思う。
なるほど大衆化された国民の世継ぎ政治家等へのルサンチマンを巧く使う戦略で、経費削減や定数削減で従来から言われていた第二院不要論を挙げればベクトルを変換させてそこに不満が集約されて扇動できると考えているのだろう。郵政民営化などのアドバルーンの上げ方と非常に良く似ていてワンセンテンス・ポピュリズムとして、短絡化を押し進めた戦後民主主義教育の衆愚教育の成果を巧く利用している。
英国の貴族院のようなもしくは三部会のような機能が戦後民主主義から消えて仕舞いながらも上のような社会への現実認識が進んでいる状況からすれば、もし一院制を実施するならば、職業の自由に反する「世継ぎ議員の禁止」や「緑の党」が嘗て提案したような「議員勤続年数の制限もしくは当選回数の上限」もしくは「職業政治家の禁止」の条項を設けない限り、権力の集中が強化される。まさに大衆のルサンチマンの利用しながら、定員を減らすなどして権力の集中を意図した立案である。
そうした本質的な議論を第四の権力者達が展開しないのはまさに微温状況の社会であり、エリート教育がなされていない戦後大衆化を象徴する。なにも最近の総理大臣などが軒並み日本人の痴呆化幼児化を象徴しているだけではないのである。
裁判員制度の問題も色々とBLOG「Barl-Karthの日記」で読んだが、ああした市民を代表して裁定する委員を満遍なく選ぶ事が可能ならば、議論よりも採決とコモンセンスを重視した直接民主主義の感覚を取り入れた第二院を構成すれば良いのではなかろうか。各国会毎に無作為に選ばれた有権者が法案の可否を、公聴会風に開かれた第二院で採決するのである。現在問題となっているような給付金も否決されて、なにも国民投票までも必要としない案件に一般国民の意思を直接反映する事が出来るのではなかろうか。
裁判院制度の実態は、既に死体遺棄事件のなによりも商業的な利害を重視した報道姿勢やその裁判方法の結婚披露宴式ショー化への変革に表れているように、伝統的な被害者人格の崩壊と人間の尊厳の矮小化を押し奨める政策のようである。日本がこうした文化的な荒廃と退行現象を著しく示しているのは上記したような教育の大衆化の賜物に他ならない。
参照:
アナクロ“麻生マンガ【世襲内閣】”と“見得きり【世襲男・小泉】” (toxandoriaの日記)
「ナチスと映画」飯田道子 (Mani_Mani)
勲章撫で回す自慰行為 [ BLOG研究 ] / 2008-07-26
外人への機会均等違反 [ アウトドーア・環境 ] / 2008-07-13
掛け値無しのLA大舞台 [ マスメディア批評 ] / 2008-02-26
悪は滅びて、善は光り輝く [ 歴史・時事 ] / 2005-09-05