Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

人道的公正への感受性

2009-01-02 | マスメディア批評
腹が膨れて、まだ酒が残っている。生木で燻製された鮭も総て平らげてしまった。百グラムほど買ったのだが、残りを総て付けてくれたので二百グラムはあったろうか。魚のパテも鰻が入ったものなど二つなど、十分な量があった。

ワインも、2007年産ソォビニオン・ブランを主に玄武岩土壌の2006年産リースリングを一リットル以上飲んだ。朝食後、十時半には飲みはじめたので、ノイヤースコンツェルトを見ながら、それが終わって午後二時過ぎにはベットへと向った。

そして教会の打ち鳴らし続く鐘に目を醒ますととっぷりと暗くなっていた。喉にこみ上げて来るものが塩辛い。悪酔いをした訳ではない。酔いは気持ち良く残っているのだが、どこかに苦味があるのだ。

そのようなコンサートライヴ中継を観ていたからだろうか。年に一度しか見ない音楽番組がこのイヴェントとなるとは自分でも信じ難いようなTV聴視指向である。それほど此方の興味が変わって来ている事もあるのだろうが、それにしてもなんと塩辛く苦味の溢れたヴィーナー・ヴァルツァーだったことか!

嘗てのLP収集者としては、どうしても往年の指揮者オットー・クレンペラーなどが演奏するある種の曲の演奏実践を思い出してしまうようなテンポと味付けであった。元々この指揮者の個性でもあったのだが、これほどに殆どグスタフ・マーラーを想起させるようなヨハン・シュトラウスも珍しい。今年の欧州文化都市であるヒットラー総統の生地であるリンツに纏わる休憩時間に流される映像ではシューベルトのソナタを弾いていたが、そのシューベルトの曲自体にもやはりそうしたオーストリアの音楽のエッセンスとしてそうした萌芽が見られる。ヴィーナクラシック然り。ああした、ある時はセンチメンタルに満ちて土着的な、東欧系のポルカなど舞踊の集積である。

しかし、ヨハン・シュトラウスがああしたイントネーションで演奏されるとあまりにも苦味が迸り、マーラーの交響曲における軍楽の響きや白昼夢のようにして踊られるワルツに悪酔いしてしまう。謂わば、芸術のなかでも ― 本当は詩や造形芸術でも変わらないのだが ― 時間の推移による認知をモットーとしている音楽芸術において、境界線を越えた裾野にあるようなシュトラウスの音楽でこうした演奏を実践するのはやはり特別な意味合いがある。特に音楽ファンは故チェリビダッケ指揮の演奏芸術などをとやかく言うのだが、演奏実践のそれもこうしたイヴェントにおいてのコンセプトの可能性を拡げるものはなにもそのような「特殊な芸」でなくても構わない。

当初から予定されていたであろうハイドンイヤーに向けた告別交響曲は、伝承によると絶対的なエステルハージ領主に対する労働条件改善の抗議行動として演奏された最後には誰も居なくなる交響曲として、現在の経済危機の中で世界中で大問題となっている季節労働者や臨時・非正規雇用者への連帯をそこにアレゴリーとして感じない者はいない。それで良いのだ。

音楽家バレンボイムがそれでも十二分に表現したのは、そうしたシアターピース的な場面以上に、苦渋に満ちた皮相なシュトラウスのユダヤ人的な影の表現である。当然の事ながら新年の挨拶としてスピーチされた中東に望まれる「人道的公正」こそがそうした感受性を通じて初めて齎されるとすると、啓蒙思想に立脚する近代音楽と呼ばれる芸術音楽の基本理念に他ならないだろう。それにも拘らず商業音楽や社会主義音楽として扱われてきた傾向の軽音楽に含まれるヨハン・シュトラウスの創作活動を、こうした形で演奏実践したのである。

こうした音楽興行がなんらかの芸術的な意味合いを持つかどうかは、彼らがやったように実践して試してみなければ分からないものなのである。



参照:
日の出のときだろうか [ 雑感 ] / 2009-01-01
連邦共和国の建つ認識 [ 歴史・時事 ] / 2008-06-29
コメント (2)
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