正月のノイヤースコンツェルトの「見方」が少々話題になっている。話題の主は指揮者ダニエル・バレンボイムで、彼のメッセージが英語から独訳されてネットにあるのでそれを紹介してもう少し考えてみよう。
なによりもまず先に、この指揮者とパレスティナ文学者エドワード・サイードが共同で行なったプロジェクトであろうエルサレムの音楽院での成果が先日ラジオで話題となっていた。イスラエルは、近くではコソヴォにみられた様に、合衆国の公民権運動へと繋がるもしくは南アフリカで有名な一種のアパルトヘイト政策を採っていて、通常はパレスチナ人とユダヤ人が机を並べて学ぶ事はないと言う。しかし音楽院では日常茶飯にそれが行なわれていて、若者達は分け隔てなく芸術を学ぼうとしている「大成果」を読者は踏まえておく必要がある。
さて、ダニエル・バレンボイムは、年頭にあたって三つの願いを書いている:
一つ、イスラエル政府は、今回限り、中東紛争は武力を手段として解決されるものではないと認識する事。
一つ、ハマスは、暴力が彼らの利益とは相反して、イスラエルの存在は現実であることを認識する事。
一つ、世界は、この紛争は歴史的に唯一無二である事を認識して、例外無き複雑さと重荷であると認識する事。これは、おのおのが自らの権利を全く疑わない、同じ一角に暮らす二つの民族間の人間的な紛争であって、外交手段や武力手段によって解決されるものではない。
先日来の進展は、私にとって様々な理由から、尋常ならない憂慮である。勿論、イスラエルは、自国民を絶え間ないロケット攻撃から護る権利を有して、それを断固許さないのは当然であるが、ガザにおける野蛮で容赦無い軍の空爆は幾つかの疑問を生じさせる。
一つ、イスラエルは、ハマスの行動をパレスティナ人全員に責任を取らせる権利はあるのか?すべての住人はハマスのテロリズムの犯罪によって罰せられるべきなのか?私達ユダヤ民族は、誰にも増して無実の市民が非人間的に殺害されることに対して敏感であり、それを断固否定するべきである。イスラエル軍は、言い分けとして、「ガザの市民の犠牲を避ける事が出来ないほどのあまりもの人口密集」を挙げているが、これはあまり道理がない。
つまり、それならば一体空爆の意味はどこにあるのだと疑問が湧いて来る。一体イスラエルは何を期待しているのだ?ハマスを叩くならば、一体そんな事で目標に到達する事が出来るのだろうかと。さもなければ一体こんな悲惨で野蛮で無責任な作戦など無意味でしかない。
もし、ハマスを壊滅させる事が出来るとすれば、イスラエルはガザの反応をどのように考えているのか?百五十万人のガザの住民が突然イスラエル軍の膝元にひれ伏せはしない。忘れてはいけない、ハマスはパレスティナ住民に選挙で選ばれる前から、イスラエルのアラファトの弱体化を狙う戦略から推奨されていたのである。身近な歴史を振り返れば、ハマスが撲滅されても、今度は他のさらに急進的で暴力的なグループがイスラエルに対峙して来ると予想される。
イスラエルは、その生存権から軍事的な敗北は許されない。しかし、イスラエルが軍事的に勝利すれば、急進的なグループが台頭する事で、いつも政治的にそれ以前よりも弱体化しているのである。イスラエル政府が日々難しい選択を迫られている事は疑いない。だから、イスラエルの長期に渡る安全保障は、隣人達に受け入れられることであると考える。2009年がユダヤ民族に授けられたソロモンの智恵を政治家も取り戻して、パレスチナ人とユダヤ人の双方が同じ権利を持つようにと、ユダヤ人の賢明を願う。
パレスチナの暴力はイスラエルに及び、パレスチナを蝕む。軍事的な報復は非人間的で非人道的であり、イスラエルに安全保障を与えない。述べたように、両民族の運命はお互いに解かれること無く結ばれている。彼らは共に生きなければいけなのである。彼らは、そこに祝福を望むのか、逃避を望むのか判断しなければいけない。
― ダニエル・バレンボイム記 ―
なにも付け加える事はないが、こうした政治的発言をどのように評価するか以前に、音楽芸術に関心ある者は彼が言う「ユダヤ民族は、誰にも増して敏感」に留意すべきではないだろうか。勿論これは数々のポグロムの歴史とナチスによるホロコーストの「貴重な経験」を指しているのだが、その「記憶」がどのようにして「伝承」されるかというとやはり芸術文化における表現でしかない。つまり最終的にはなんらかを伝えるには知的な認知が必要であるとして、それだけでなにが伝わってなにが伝わらないかを考えてみれば良いのではなかろうか?
なにかを受け取り感じる事が出来るか否かは、抽象化された文字や高度に発達した記号によるとは限らないと、この音楽家は逆説的に示してはいないだろうか?そう、人は自らの体験でしか物事を認知出来ないのである。少なくともそうした感受性の敏感さに依存して、はじめてメッセージを音楽芸術が伝える事が出来ると信じていると見做して間違いない。
参照:
Daniel Barenboim über Israel, FAZ vom 1.1.2009
ウィーン・フィル・ニュー・イヤー・コンサート2009 (yurikamomeの妄想的音楽鑑賞)
人道的公正への感受性 [ マスメディア批評 ] / 2009-01-02
日の出のときだろうか [ 雑感 ] / 2009-01-01
なによりもまず先に、この指揮者とパレスティナ文学者エドワード・サイードが共同で行なったプロジェクトであろうエルサレムの音楽院での成果が先日ラジオで話題となっていた。イスラエルは、近くではコソヴォにみられた様に、合衆国の公民権運動へと繋がるもしくは南アフリカで有名な一種のアパルトヘイト政策を採っていて、通常はパレスチナ人とユダヤ人が机を並べて学ぶ事はないと言う。しかし音楽院では日常茶飯にそれが行なわれていて、若者達は分け隔てなく芸術を学ぼうとしている「大成果」を読者は踏まえておく必要がある。
さて、ダニエル・バレンボイムは、年頭にあたって三つの願いを書いている:
一つ、イスラエル政府は、今回限り、中東紛争は武力を手段として解決されるものではないと認識する事。
一つ、ハマスは、暴力が彼らの利益とは相反して、イスラエルの存在は現実であることを認識する事。
一つ、世界は、この紛争は歴史的に唯一無二である事を認識して、例外無き複雑さと重荷であると認識する事。これは、おのおのが自らの権利を全く疑わない、同じ一角に暮らす二つの民族間の人間的な紛争であって、外交手段や武力手段によって解決されるものではない。
先日来の進展は、私にとって様々な理由から、尋常ならない憂慮である。勿論、イスラエルは、自国民を絶え間ないロケット攻撃から護る権利を有して、それを断固許さないのは当然であるが、ガザにおける野蛮で容赦無い軍の空爆は幾つかの疑問を生じさせる。
一つ、イスラエルは、ハマスの行動をパレスティナ人全員に責任を取らせる権利はあるのか?すべての住人はハマスのテロリズムの犯罪によって罰せられるべきなのか?私達ユダヤ民族は、誰にも増して無実の市民が非人間的に殺害されることに対して敏感であり、それを断固否定するべきである。イスラエル軍は、言い分けとして、「ガザの市民の犠牲を避ける事が出来ないほどのあまりもの人口密集」を挙げているが、これはあまり道理がない。
つまり、それならば一体空爆の意味はどこにあるのだと疑問が湧いて来る。一体イスラエルは何を期待しているのだ?ハマスを叩くならば、一体そんな事で目標に到達する事が出来るのだろうかと。さもなければ一体こんな悲惨で野蛮で無責任な作戦など無意味でしかない。
もし、ハマスを壊滅させる事が出来るとすれば、イスラエルはガザの反応をどのように考えているのか?百五十万人のガザの住民が突然イスラエル軍の膝元にひれ伏せはしない。忘れてはいけない、ハマスはパレスティナ住民に選挙で選ばれる前から、イスラエルのアラファトの弱体化を狙う戦略から推奨されていたのである。身近な歴史を振り返れば、ハマスが撲滅されても、今度は他のさらに急進的で暴力的なグループがイスラエルに対峙して来ると予想される。
イスラエルは、その生存権から軍事的な敗北は許されない。しかし、イスラエルが軍事的に勝利すれば、急進的なグループが台頭する事で、いつも政治的にそれ以前よりも弱体化しているのである。イスラエル政府が日々難しい選択を迫られている事は疑いない。だから、イスラエルの長期に渡る安全保障は、隣人達に受け入れられることであると考える。2009年がユダヤ民族に授けられたソロモンの智恵を政治家も取り戻して、パレスチナ人とユダヤ人の双方が同じ権利を持つようにと、ユダヤ人の賢明を願う。
パレスチナの暴力はイスラエルに及び、パレスチナを蝕む。軍事的な報復は非人間的で非人道的であり、イスラエルに安全保障を与えない。述べたように、両民族の運命はお互いに解かれること無く結ばれている。彼らは共に生きなければいけなのである。彼らは、そこに祝福を望むのか、逃避を望むのか判断しなければいけない。
― ダニエル・バレンボイム記 ―
なにも付け加える事はないが、こうした政治的発言をどのように評価するか以前に、音楽芸術に関心ある者は彼が言う「ユダヤ民族は、誰にも増して敏感」に留意すべきではないだろうか。勿論これは数々のポグロムの歴史とナチスによるホロコーストの「貴重な経験」を指しているのだが、その「記憶」がどのようにして「伝承」されるかというとやはり芸術文化における表現でしかない。つまり最終的にはなんらかを伝えるには知的な認知が必要であるとして、それだけでなにが伝わってなにが伝わらないかを考えてみれば良いのではなかろうか?
なにかを受け取り感じる事が出来るか否かは、抽象化された文字や高度に発達した記号によるとは限らないと、この音楽家は逆説的に示してはいないだろうか?そう、人は自らの体験でしか物事を認知出来ないのである。少なくともそうした感受性の敏感さに依存して、はじめてメッセージを音楽芸術が伝える事が出来ると信じていると見做して間違いない。
参照:
Daniel Barenboim über Israel, FAZ vom 1.1.2009
ウィーン・フィル・ニュー・イヤー・コンサート2009 (yurikamomeの妄想的音楽鑑賞)
人道的公正への感受性 [ マスメディア批評 ] / 2009-01-02
日の出のときだろうか [ 雑感 ] / 2009-01-01