ネイル・アームストロング船長が八十歳の誕生日に因んでTV出演した話を読む。呼び主のザルツブルクのサーヴスTV局の、レッドブルのオーナーは空港の飛行機博物館のコレクションの持ち主でもある。
レッドブルの新聞折込雑誌にはクリント・イーストウッドのやはり八十歳のインタヴューが載っていたが、その他にも新聞にはラインホルト・メスナーの自宅訪問記や、最近見つかったランボーのアフリカでの写真、ヴァルター・ベンヤミンの最後の旅に関する新著紹介、その友人のアドルノのスイスでのホリデー、ヒットラー夫妻とゲーリングが並ぶ水上での夏の憩いなどの話題に事欠かない。
ラジオでは、「人はなぜ旅をするか」の特集が組まれ、旅行大国連邦共和国の面目躍如たるところである。そもそも貴族的なそれと十九世紀末の合衆国での文化的な流れがあるようで、それを現代の一般大衆がそれを追従するは意味はことなり、ツーリズムは都合の良い産業の一つでしかない。
旅行自体の面白さをどうのこうの考察する心算は無いが、読もうと思って溜まっていたり、一寸目を通したりする上記の記事の特徴は人に関するもので、必ずしも偉人伝とかそうしたものではないのだが、興味を引くのはそれらの人が何をどのように考えたかもしくは感じたかの環境の中でのその作用であると結論出来るだろうか。
件のアームストロング氏の反応で興味を引いたのは、やはり月面到達への懐疑への質問で、それを答えるには長い沈黙があったという点と、もう一つは自分自身はただ行かされたとする態度ではなかろうか。これは、その朝鮮戦争時の海兵隊としての軍籍やナーカ入所後のロケットテスト飛行士の経歴を見ながら、さらに他の冒険家と比べるととても面白い。四十歳を過ぎてマスターを取ることで教鞭をとることになるが、航空技師としての始まりとその後の流れは全く偶然に「月に立てた」としていることが全てを語っているようだ。キャリアを積んでいった人生の典型的な感慨だろう。宇宙に関しては、キューブリックの映画が全てのようで、人の認知力や想像力などはそうしたものである。
そこに立った足元を見られるというこの飛行士は、著作にあるようなドキュメンタリータッチの着陸直前の英雄劇は生では一切語らないという。そして、彼は転売される自身のサインを一切しないようである。
本日は明け方は雨が降って冴えなかったが、徐々に青空が広がってきた。先週走り切れなかった川沿いの道を、喘いで維持で走り抜いた。走り似たといっても足が前に出ないのは前回と変わりない。結局見えないほどののぼりでもける力が無いために足が前に出ない。逆に、蹴る力がつけば何とかなるのだろう。
十一分間約1700歩を走り抜いて、今度は坂道を高度差三百メートルを一気に登ると、既に三十七分経過していた。走り抜いた分山登りの速度は落ちた。更に、脛に痛みを感じて山道を歩くのもふらふらであった。最後の坂道を一気に走り降りれば、一時間を切るが、こけない様に慎重に足を運び走り降りると何時もより二分ほど余分に時間が掛かった。まさに、私のそれは自分にとってはかなり大きいのだが人類にとっては価も無いほどちっぽけなのである。
レッドブルの新聞折込雑誌にはクリント・イーストウッドのやはり八十歳のインタヴューが載っていたが、その他にも新聞にはラインホルト・メスナーの自宅訪問記や、最近見つかったランボーのアフリカでの写真、ヴァルター・ベンヤミンの最後の旅に関する新著紹介、その友人のアドルノのスイスでのホリデー、ヒットラー夫妻とゲーリングが並ぶ水上での夏の憩いなどの話題に事欠かない。
ラジオでは、「人はなぜ旅をするか」の特集が組まれ、旅行大国連邦共和国の面目躍如たるところである。そもそも貴族的なそれと十九世紀末の合衆国での文化的な流れがあるようで、それを現代の一般大衆がそれを追従するは意味はことなり、ツーリズムは都合の良い産業の一つでしかない。
旅行自体の面白さをどうのこうの考察する心算は無いが、読もうと思って溜まっていたり、一寸目を通したりする上記の記事の特徴は人に関するもので、必ずしも偉人伝とかそうしたものではないのだが、興味を引くのはそれらの人が何をどのように考えたかもしくは感じたかの環境の中でのその作用であると結論出来るだろうか。
件のアームストロング氏の反応で興味を引いたのは、やはり月面到達への懐疑への質問で、それを答えるには長い沈黙があったという点と、もう一つは自分自身はただ行かされたとする態度ではなかろうか。これは、その朝鮮戦争時の海兵隊としての軍籍やナーカ入所後のロケットテスト飛行士の経歴を見ながら、さらに他の冒険家と比べるととても面白い。四十歳を過ぎてマスターを取ることで教鞭をとることになるが、航空技師としての始まりとその後の流れは全く偶然に「月に立てた」としていることが全てを語っているようだ。キャリアを積んでいった人生の典型的な感慨だろう。宇宙に関しては、キューブリックの映画が全てのようで、人の認知力や想像力などはそうしたものである。
そこに立った足元を見られるというこの飛行士は、著作にあるようなドキュメンタリータッチの着陸直前の英雄劇は生では一切語らないという。そして、彼は転売される自身のサインを一切しないようである。
本日は明け方は雨が降って冴えなかったが、徐々に青空が広がってきた。先週走り切れなかった川沿いの道を、喘いで維持で走り抜いた。走り似たといっても足が前に出ないのは前回と変わりない。結局見えないほどののぼりでもける力が無いために足が前に出ない。逆に、蹴る力がつけば何とかなるのだろう。
十一分間約1700歩を走り抜いて、今度は坂道を高度差三百メートルを一気に登ると、既に三十七分経過していた。走り抜いた分山登りの速度は落ちた。更に、脛に痛みを感じて山道を歩くのもふらふらであった。最後の坂道を一気に走り降りれば、一時間を切るが、こけない様に慎重に足を運び走り降りると何時もより二分ほど余分に時間が掛かった。まさに、私のそれは自分にとってはかなり大きいのだが人類にとっては価も無いほどちっぽけなのである。