Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

心躍らされるお知らせ

2014-09-23 | 雑感
フォア・アールベルクの新聞記事がゴーグルキオスクにあった。何度も消去したアプリケーションであるが、新聞記事のサマリーが面白いと思って復活させている。その記事は、地元の管弦楽団のシーズンに約束していたマーラーツィクルスで、キリル・ペトレンコがオープニングを飾ったというものだ。ニュースヴァリューが高いのもミュンヘンの監督でバイロイトの指輪で名声を確立した指揮者がこうした地方管弦楽団を指揮する機会はもはやないと考えられているからだろう。

ヴィーンを辞めたオーストリアの指揮者ヴェルサー・メストがベルリンの音楽祭でクリーヴランドの管弦楽団を指揮して現代もので大成功しているように、超一流の指揮者ともなればその活動が限定されてくるので、あれだけの技量を示した若手指揮者の仕事も今後限定されてくるということに他ならない。

第六番の交響曲の前に「リュッケルトの歌」をフィッシャーディスカウの弟子によって女声で歌われて、その明白な発音が際立ち、「真夜中に」での管弦楽の押さえた表現が特記されている。その感じもよく分るのはこの指揮者の声楽伴奏の絶妙さを知っているからである。

しかし交響曲での魅せ方聞かせ方は知らない。ここに書いてあるように「確りした弦楽器群に名妓性のあるソロが乗って」という感じは、そのバランス感覚と共に「指輪」においても耳をそばだてたものであり、「あらゆる声部のコントラストが明晰に光を当てられたとする」感じも印象に残った技量である。そしてそうした音楽をそれほど技量の高くない管弦楽団から限られた時間で導き出す技量は驚異としかいえない。

今まで一流・超一流の指揮者の生演奏に接してきたが、これほどまでに音楽的に管弦楽を鳴らす指揮者は知らない。何か新しいことをやっているようには思えないのであるが、その指導や指揮の能力は明らかに未知のものである。これだけ管弦楽でやることは何も新しいことはないと考えられて何十年も経つが、今更ながらこうした大管弦楽体験が叶うとは思ってもいなかった。

ケント・ナガノやシャイーのエドガー・ヴァレーズのCDを流していたが、こうした大管弦楽のバランス感覚の前では彼らはまだまだ何も出来ていないようにしか思われないのである。

先日来しつこく電話を掛ける人がいると思ったら、誕生日の招待であった。シュヴァルツヴァルトのペンションの旦那である。還暦になるという。飲めや歌えの大パーティーにしたいようである。ファックスの招待状で、電話の用件が分った。慶弔のどちらがよいかということならばやはり前者に出かけてあげる方がよいので招待を受けることにした。なによりも繰り返し電話を掛けてきていたことを知っているので断るわけにはいかないだろう。片道200KMの距離もあり、飲むと帰れないので大変なのだが、その前に新しい岩場を試せたらと、計画してみよう。



参照:
意味ある大喝采の意味 2014-08-06 | 文化一般
氷雨が予想されていた日曜日 2013-01-28 | アウトドーア・環境
コメント
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