Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

MeToo指揮者に捧げる歌

2019-02-03 | 文化一般
ペトレンコ指揮「フィデリオ」再演は書き尽くせない。もし私が楽曲を暗譜していたら、一冊本を書けていただろう。初日と最終日は全く異なっていた。乗っている奏者の相違も明らかで、特にオーボエの山賊兄などには心配したが、どうして見事にこなしていた。そして一幕に関しては軍配は最終日に上がった。二幕は冒頭に詰まらない演出に残念にもヤジが飛んで緩んでしまったので迷惑至極だった。カウフマンの折角の歌唱も初日とは比較にならない普通の出来だった。PAの轟音とともに舞台装置が動く間に我慢できない爺さんがいて声を上げた ― 丁度クリーゲンブルク演出「ヴァルキューレ」三幕前のような塩梅だ ―、上から見ていたのでよく分かったがグリーンラムプが点くと振り始めるようになっていて、タイミングが非常に悪かった。カウフマンファンは爺さんに賠償を求めるべきぐらいである。だから最後のフィナーレのプレストモルトで限界まで加速しても効果が薄れた。あれは幕開きから最後までを一挙にもっていかないといけない。何度も言及しているが掛け声とか何とかは余程タイミングが合わないと間が抜けたものになり、特に音楽の場合は致命傷になる ― コンサートの最後の音の余韻とか言っているような程度ではお話しにならない世界である。

しかしそうしたテムピの配置だけでなくリズム的なアクセントなど、初日には出来ていなかったことを山積みしてきていた。キリル・ペトレンコは新制作初日やマイクが入ると決めてくるが、オフ録の時は色々なことを試してくる。それがオペラの場合は、外的な事故とか歌手の不調とかと不可抗力として、その職人的な技量を示しているかに見えるが、再演のベートーヴェンに関しては明らかに初日には出来ていないことを可能な限り出してきた。冒頭に書いたように、逐一指摘すべきことは沢山あるだろう。しかし録音がないと難しい。

そこで先ず留意すべきはその楽器配置である。殆どこのところ原理主義かのように伝統的独対抗配置を取ってきたのが、ここに来て通常配置を採用している。勿論その楽譜からの判断であり、冒頭のレオノーレ三番のコーダのカノンからして抜群の効果が上がる。対抗配置にする価値よりも音響的にも合わせ易く合理的ということなのだろう。そのことは初日におけるアンサムブルにも表れていて、課題と対策が様々に試みられているということでしかないだろう。

それゆえに特筆しなければいけないのは一幕における見事な音楽運びだ。フルトヴェングラーの「レオノーレ三番」を往路の車中で聴いた。その指揮は殆ど狂ったようなクライマックスとなっていたが、懲りずに聴いたベーム指揮の第一幕の大雑把には代えられない。私が言いたかったのは、勿論フルトヴェングラーのテムピやアゴーギクがペトレンコ指揮に似ているというのでは全く無いが、楽聖の音楽の本質的な要素としてのその音楽構造と楽譜の読み方そして演奏実践における共通項である。それが顕著になったのは一幕で、恐らく最終日の一つのハイライトだったレオノーレのレチタティヴとアリアで、ホルンの妙技も特筆されるべきだが、カムペがあれほどオペラティックに歌えたのもその指揮運び以外の何ものでもなかった。カムペの名唱でもあり、バイエルンの音楽監督として記録として先ず「影の無い女」を挙げられるのに対し私はここのこれだけで超一流のオペラ指揮者としてのペトレンコを記念しておきたい。

カムペ自身が語っていたようにあまりにも器楽的に書かれているために、オペラ的な歌謡表現がままならず、恐らく今までこれほどまでに上手く行った演奏は無かったのではなかろうか?名録音もあるが、トスカニーニにしろ、マーラーにしても、歴代の名指揮者もこれを解決するのはとても難しかったと思う。私がどんなに「ペトレンコはオペラ指揮者でない」と強調しても、こうして歴史に残ってしまう。そのような指揮であり、ここでの試みと成果が、ベートーヴェンの演奏として夏まで繋がっていくと確信する。なにもフルトヴェングラーが楽聖の交響曲を狙い撃ちにして自らの音楽演奏実践の素材にしたのではないということだ。
Gwyneth Jones "Abscheulicher! Wo eilst du hin?" Fidelio

Christa Ludwig - Abscheulicher

Fidelio Leonorenarie Janowitz 1977

Régine Crespin; "Abscheulicher"; Fidelio; Ludwig van Beethoven

Beethoven - Fidelio - Vienna / Furtwängler 1953 live cf.45m30s

Beethoven: Leonora’s aria - Lehmann-Toscanini - Salzburg 1936


カムペの昨年一月の「ヴァルキューレ」と並べられるような歌だけでもって、このオペラがそしてこの再演が精彩を帯びてきたわけではなかった。先ず冒頭からヤキーノがマルツェリーナに襲い掛かる場面はもはや初日シリーズ指揮のMeToo指揮者ガッティを思い起こさずには観ておられず、ミュラーの歌に迫真性を加えた。彼女にとってもとても大きなステップアップになりそうな歌唱だった。これだけで私などはスケベ心をくすぐられ、舞台にワクワクしだした。

札束を入れたアタッシュケースを持った立ち振る舞いのロッコを歌うグロイスベックのアリアにも感動させられるなど状況は一転する。そして、ドンピサロとのデュエットなどややもするとお決まりの流れが急に劇の中で意味を持ち始める。そして歌詞にも細かく音楽が付けられていると同時に、既に触れたようにレオノーレのアリアが二幕でのフロレスタンのアリアに対照するように綺麗におかれているような大きな音楽構造も明らかにされてくる。器楽的なオペラであるそうした側面が、初めてオペラとしての表現、つまり手の込んだミクロの音楽構造表現として開花するときにこそ明らかになってくるマクロの音楽構造である。(続く)



参照:
飛ぶ鳥跡を濁さずの美 2019-01-25 | 音
宮廷歌手アニヤ・カムペ 2018-01-22 | 女
コメント
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