Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

小技ばかり長けても駄目

2019-02-18 | 文化一般
新聞にパルテンキルヘンの話が載っている。そこにブラームスの友人で「パルシファル」の初演者であるヘルマン・レヴィが祀られていた。当然のことながらナチによって破壊されて、その亡骸をミュンヘンのユダヤ人墓地に移す計画が浮上していた。ブラームスの一番を初演したカールツルーへなどと同じように戦後に名誉市民として記念しようとしたようだが、忘れ去られた存在になっていたことから、様々な経過を辿って、今回整備の上に式典が開かれる。そこにミュンヘンの後任者の一人であるキリル・ペトレンコが国立管弦楽団を連れてコンサートを開くという話題である。

場所はガルミッシュパルテンキルヘンのコンサート会場でしかないだろう。三月の「パルシファル」公演前ぐらいに出かけて、「パルシファル」から数曲を演奏するのだろうか。それとも「マイスタージンガー」から数曲を合わせて演奏するのだろうか。

夜中に録音をしながら寝室ではうっすらと音が流れていた。ボストンからの中継である。気が付いたのはブルックナーの九番になってからであるが、あまり冴えない感じだった。終了時刻を待ってトイレに立つ序でに先ずは電源を下ろしに階下に行った。予定通り二時間半を録音しておけば欠けることなく最後まで録音できる。生放送時の注意である。

起床後に録音を鳴らしてみた。最初も比較的正確に始まっていた。ワンのインタヴューに続いてざっと流してみて、思ったよりもシューマンの協奏曲がよかった。それもワンのピアノにホロヴィッツとか恐らく知らないがワッツとかのアメリカのピアニズムの伝統を聞く。だからボストンでアルゲリッチの代わりに飛び入りしてスターダムに上がった女流であるが、その手本を完全に超えていると思った。アルゲリッチの協奏曲もギーレン指揮のチャイコフスキーをフライブルクの音大で聞いたことがあるが、ワンのように立派なピアノは弾かない。ワンは昨年の夏にルツェルンでプロコフィエフの三番を聞いて、アンコールが付いただけだったが、プロコフィエフよりもシューマンの方がよいかもしれない。なるほど今後メインストリームのレパートリーが増えてくるのだろうが準備期間さえ十分にとれば直ぐに天下をとってしまいそうな勢いである。

ネルソンズ指揮のボストン響もテムポ設定など従前に打ち合わせて上手に付けていて見事だと思うが、一方で物足りなさもある。それは後半のブルックナーでより明白になる。一言で言えばもたもたしている演奏で、いまどき求められていない演奏だ。この指揮者はゲヴァントハウスでもバスの量感や流し方に留意して、全体のバランスをとる意識をしている。恐らく自身が管弦楽団でトラムペットを吹いていたのでそれとのバランスをとる十分な量感が欠かせないのだろう。それは構わないのだが、放送などでも顕著になるのは若干ブヨブヨさせてしまっていることで、キリル・ペトレンコなどが奈落においてさえも徹底的に音価を守って締めてくるのとは正反対である。

残念ながらボストン響はベルリンのフィルハーモニカーとは異なって徹底的に押しつけがましくバスに上乗せしてくる弦が無い。ベルリンでそれを推し進めていくとカラヤンサウンドに近づいてくる。ペトレンコの場合はアンチカラヤンが先に有って締めてくるようにとられないのは、全てにおいて締めて来ているからで、一つ筋が通っている。それによって新生フィルハーモニカーでは徹底的に引き締まったバスが高弦に負けないほどの鋼のような低音を響かすことになっている。現時点ではそれに相応するだけのハーモニーを木管や金管が築けていない。

ネルソンズ指揮のこうしたブルックナー演奏ではどうしてもエピソード的なものをことさら強調する形でしか表現できずに、他の楽曲に比べても殊更感が鼻につく。特に楽員のソリスト的な音楽性を尊重しようとすればするほどチグハグ感が高まる。前夜のハーディング指揮にも共通するが、特にブルックナーでは小器用な指揮が徒になるようだ。クナッパーツブッシュまでを出す必要はないが、ブロムシュテットでもラトルでもそんな小器用な指揮はしない。ティーレマン指揮でもブルックナー演奏が全然よくないのは出来もしないのに要らないことをやってくるからである。まるで宇野功芳のようになってしまった。

ここまで言ったなら序でに吉田秀和調で、お相撲のお話しにしよう。ネルゾンズにはそのゲヴァントハウス管弦楽団とともに期待しているが、上のような演奏実践で正しく関脇なら許されるとったりとか足取りの業に似ていることをするのである。なるほどその番付で金星をとるには必要かもしれないが、あまり感心される技ではない。大関昇進を望むならばぐっと我慢して凌ぐことも必要である。客演指揮の数を落としても結局メディア産業の録音プロジェクトに乗せられると、つまらない小技ばかりに長けて綱を掴めなくなる典型である。



参照:
待ったを掛ける俳諧 2019-02-17 | 音
意地悪ラビと間抜けドイツ人 2017-07-27 | 文化一般
コメント
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