エマニュエル・パウの演奏でピンチャーの協奏曲を聴いた。丁度その時に同じくライヴでミュンヘンから「ヴァルキューレ」が二幕後の休憩に入った。とても良い演奏で、尺八みたいな音までを息漏れなしに出していた。一体あう云う音をどのように出せるのかと思うが、この曲の初演者で時間が経っているためか演奏としてこなれていて、これでもかというほどの音の段階を付けていた。楽譜に書き込まれているという以上に作曲家との意思疎通があるのかもしれない。あれだけの細やかな表現となると楽譜に書き込んでも限界があるように思え、そもそも簡単に真似できない。このような曲がコンクールの課題曲にもなるのだろう。勿論お手本はパウの演奏以外にない。作曲家にとっては彼が演奏してくれるだけでその楽曲の芸術的価値が上がる。あまりフレンドリーでない風采の指揮者兼作曲家だが、管弦楽も良く書けていて、一度聴いただけだが、様式としては20世紀のモダーンを出ないが、立派なものだ。更に名の知らない指揮者とベルリンの老舗放送管弦楽団が素晴らしいかった。
そして、再び三幕でミュンヘンに戻った。指揮のサイモン・ラトルファンとしては彼がどんな指揮をして、こうした楽劇では何が出来ないかを良く知っているつもりだ。たとえそれが交響楽団でのコンサート形式であっても基本は変わらない。その放送交響楽団は冒頭からゴリゴリと弾いてきて、流石に角も立っていると思っていたが、直に高弦などが美音で奏しだす。そこにチューバなどが出たり入ったりの多いアンサムブルで、この楽団のシェフの顔が浮かぶ。なるほどあのヘラクレスザールは大きな編成には向いていないのかもしれないが、超一流と比較してはいけないがクリーヴランドの楽団だったら綺麗にサウンドチェクだけで合わせてくるだろう。
歌手陣もそもそも口元の閉まらないヴェストブロックには期待しないが、指揮者があまり細かに指導出来ない分自覚して押さえて歌っていた。しかし何といっても二幕のフリッカを歌ったクールマンは見事だった。そのインタヴューも途中で流れていたが、キャンセルした「フォレと組んでペトレンコ指揮で歌ったので」と話していた。MeToo指揮者のグスタフ・クーンヘの対応も厳しく呟いていたが、ここでも中々歯切れが良い。ラトルもインタヴューで彼女の「反応の良さ」を特別に語っていた。なるほど年末の「こうもり」における歌でも分かったが、彼女自身に言わせると「フリッカが最も好きな役」となるのを歌で証明していた。大したもので、夏には第九で生を聞ける。
それにしてもラトルは、上手に語る。自身がドイツ語がそこまでできない分、古いドイツ語も気にならないので、丁度良い距離が取れていいと話す。この辺りは本当にドイツ向きで、ベルリンでの生活も「移民をやらしてもらっている」とベルリン子の子供たちのと父親と母親の間を取って丁度そこがよいのだと、上の話しの前振りにしていた。ネゼセガンも天才的だが、この人も本当に頭が良い。
そして放送管弦楽団で経験がない分、白紙で始められるのでピアノといえばピアノを出してもらえると喜んでいた。宜しい、その点は認めるが、そしてその指揮に関して分かっている分、この放送交響楽団の実力が如実に出た。やはりヤンソンス指揮になって、はっきり発音が出来るようになった分、出せない音が増えた ー 要するに意味ある音が出せなくなっている。弦の甘い音でも、これまた超一流と比較しては気の毒だが、フィラデルフィアなどであればあのような単純な音は出さない。なるほど放送管弦楽団の使命としてマイク乗りし易いことは当然であるが、ややもすると第二管弦楽団のポピュラー放送管弦楽団に近づいてしまう。オペレッタの演奏ならばそれで良いが、楽劇では流石にその差が顕著になる。
そのように考えれば、指揮者の実力もあるのだが、同じ放送交響楽団でもベルリンの老舗は立派に鳴っている。ユロウスキーの下では明らかにベルリンの方が上ではないかと感じた。それ以前に「ヴァルキューレ」に関してはペトレンコ指揮の座付管弦楽団の演奏の方がはるかに厳しい演奏をしていた。これは慣れとか慣れていないとか指揮者の腕とはまた異なるアンサムブルの問題である。ミュンヘンの放送管弦楽団がオスロの交響楽団やバムベルクの交響楽団程度ではいけない。
手元の記念切手のエルプフィルハーモニーとゲヴァントハウスの二種類が手薄になって来たので、各々シートで再注文した。特にエルプの方は145セントなので高額となり、最後の一枚を残すべきかどうか考えたぐらいなのだが、実際に会場を見ると自身の記念切手になってしまって、まだまだ使用する心算で購入した。ゲヴァントハウスの方もその管弦楽団がここ暫く更に脚光を浴びそうなのでどんどん使う心算だ。
参照:
エルブフィルハーモニ訪問 2019-01-11 | 文化一般
花火を打ち上げる奴 2019-01-01 | 暦
そして、再び三幕でミュンヘンに戻った。指揮のサイモン・ラトルファンとしては彼がどんな指揮をして、こうした楽劇では何が出来ないかを良く知っているつもりだ。たとえそれが交響楽団でのコンサート形式であっても基本は変わらない。その放送交響楽団は冒頭からゴリゴリと弾いてきて、流石に角も立っていると思っていたが、直に高弦などが美音で奏しだす。そこにチューバなどが出たり入ったりの多いアンサムブルで、この楽団のシェフの顔が浮かぶ。なるほどあのヘラクレスザールは大きな編成には向いていないのかもしれないが、超一流と比較してはいけないがクリーヴランドの楽団だったら綺麗にサウンドチェクだけで合わせてくるだろう。
歌手陣もそもそも口元の閉まらないヴェストブロックには期待しないが、指揮者があまり細かに指導出来ない分自覚して押さえて歌っていた。しかし何といっても二幕のフリッカを歌ったクールマンは見事だった。そのインタヴューも途中で流れていたが、キャンセルした「フォレと組んでペトレンコ指揮で歌ったので」と話していた。MeToo指揮者のグスタフ・クーンヘの対応も厳しく呟いていたが、ここでも中々歯切れが良い。ラトルもインタヴューで彼女の「反応の良さ」を特別に語っていた。なるほど年末の「こうもり」における歌でも分かったが、彼女自身に言わせると「フリッカが最も好きな役」となるのを歌で証明していた。大したもので、夏には第九で生を聞ける。
それにしてもラトルは、上手に語る。自身がドイツ語がそこまでできない分、古いドイツ語も気にならないので、丁度良い距離が取れていいと話す。この辺りは本当にドイツ向きで、ベルリンでの生活も「移民をやらしてもらっている」とベルリン子の子供たちのと父親と母親の間を取って丁度そこがよいのだと、上の話しの前振りにしていた。ネゼセガンも天才的だが、この人も本当に頭が良い。
そして放送管弦楽団で経験がない分、白紙で始められるのでピアノといえばピアノを出してもらえると喜んでいた。宜しい、その点は認めるが、そしてその指揮に関して分かっている分、この放送交響楽団の実力が如実に出た。やはりヤンソンス指揮になって、はっきり発音が出来るようになった分、出せない音が増えた ー 要するに意味ある音が出せなくなっている。弦の甘い音でも、これまた超一流と比較しては気の毒だが、フィラデルフィアなどであればあのような単純な音は出さない。なるほど放送管弦楽団の使命としてマイク乗りし易いことは当然であるが、ややもすると第二管弦楽団のポピュラー放送管弦楽団に近づいてしまう。オペレッタの演奏ならばそれで良いが、楽劇では流石にその差が顕著になる。
そのように考えれば、指揮者の実力もあるのだが、同じ放送交響楽団でもベルリンの老舗は立派に鳴っている。ユロウスキーの下では明らかにベルリンの方が上ではないかと感じた。それ以前に「ヴァルキューレ」に関してはペトレンコ指揮の座付管弦楽団の演奏の方がはるかに厳しい演奏をしていた。これは慣れとか慣れていないとか指揮者の腕とはまた異なるアンサムブルの問題である。ミュンヘンの放送管弦楽団がオスロの交響楽団やバムベルクの交響楽団程度ではいけない。
手元の記念切手のエルプフィルハーモニーとゲヴァントハウスの二種類が手薄になって来たので、各々シートで再注文した。特にエルプの方は145セントなので高額となり、最後の一枚を残すべきかどうか考えたぐらいなのだが、実際に会場を見ると自身の記念切手になってしまって、まだまだ使用する心算で購入した。ゲヴァントハウスの方もその管弦楽団がここ暫く更に脚光を浴びそうなのでどんどん使う心算だ。
参照:
エルブフィルハーモニ訪問 2019-01-11 | 文化一般
花火を打ち上げる奴 2019-01-01 | 暦