Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

野蛮の自己飼育具合

2020-08-05 | 文化一般
参考音資料を探している。楽劇「エレクトラ」の録音を道中二回ほど聴き通せるので、先日のザルツブルク初日の映像以外にもう一つ資料が欲しい。何をと考えている。既に通して聴いたのはベーム博士指揮の録音で、一番初演時代の演奏に近いと思っている。実際にとてもいい出来で、不協和な音などがシャープに出て来て痛快なのだが、先日の初日の演奏を聴くと矢張り音化として足りないことが分かった。

そこで、初日のFAZ紙の評の中にバレンボイム指揮ベルリンの座付管弦楽団の演奏に言及があった。そのCDを所持していることを思い出した。そこでは、シェロー演出の再上演がなされてその心理劇が、喜びと恐れの間での暴力と幻想への衝動の抑圧としてあるとされる。そこが、ヴェルサーメスト指揮ではその心理とは血の気に応じる野蛮であるかのように思われる。

感覚的には、ヴィーナーフィルハーモニカーの華やかな演奏とドレスデンでの録音やベルリンでのそれを思えば直感的にはとても分かり易い。それは実際に音楽的などのような特徴がどのように演奏されるることで差異が生じているのか、つまり創作のどのような固有の特徴が演奏実践として顕著になっているかという事にこちらのお勉強の興味は向かう。

批評に戻ると、それだからと言って大まかでは無くて、ヴィーナーフィルハーモニカーが声に被さってしまうというのはないと、またヴェルサーメストの場合指揮の正確さが疑問となることも無いとしている。つまりエレクトラが母親のクレムネストラを「女神」と呼ぶとき、エレクトラの夏の風に靡く髪が、男たちが震えると歌う時に弦楽に妖精の踊りがと書かれる。

「ばらの騎士」の音楽がすでにそこに、二分の三、四分の六、四分の九とエレクトラが亡き父の慕で踊るときに刻まれる。柔軟性と彫塑性を以ってヴェルサーメストが振ると「ツァラストラかく語りき」からの踊りへ戻り、楽劇「ばらの騎士」へと論理的な帰着となるとしている。

燃料を満タンにした。残りもあったのだが79ユーロとまあまあの価格で入れれた。今回は行先でもう一度満タンにしないといけないので、往復で千キロを超えるので100ユーロは超えるだろうが、120セント以下の入れれたので大分助かる。

衣裳も準備した。シャツや上着は選択の余地はあまりないが、タイをどうするか考えている。色合いが「エレクトラ」の方はもう一つ分からなかった。再度映像で確認しておかなければいけない。新聞は書いている。上等な衣装を身に纏っている者に限って、そのマスクの準備はみすぼらしく、同じような状況はベルリンでも同じで、教育を受けている者があまり留意していないとなる。まさしくその社会性が問われて、その密な祝祭劇場前やフェルゼンライトシューレではそれが配慮や自己飼育への試金石となっていると書いている。



参照:
へそ出しもビキニも 2020-08-03 | 女
フラマン人の誇り 2020-08-01 | 文化一般



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