(承前)「ザルツブルク音楽祭は始まった。そしていつまで続くかは誰も分からない」はフランクフフルタ―アルゲマイネ新聞の楽劇「エレクトラ」初日への音楽評だった。そこで批判されていたのは、教育を受けたベルリンでもいるような上等のお召し物で銀の格子のタイをしているような人がまともなマスクの準備もしていないということだ。
本年は海外からの訪問者は事実上締め出されて、ドイツ語圏を中心に近隣諸国の聴者が対象となって百周年祭が開かれた。そこでこちらが期待したのは、ミュンヘンとヴィーンからの聴衆を中心とした所謂玄人だけでなく高度な質の聴衆であった。しかし初日評に既に批判としてそのことは指摘されていて、聴衆も試されていた。当然のことながら初日は玄人筋を除いても招待客が多くスポンサー会社のお偉いさん方が集っていたのだろう。
その点では、「エレクトラ」二回目の上演に際して、それほどマスク装着義務などを疎かに扱う者はいないかに見えたが、ソーシャルディスタンシングは全くなってはいなかった。ディスペンサーを使う人はミュンヘンからの人のようにも思えた。しかし話し声からすると、ヴィーンは気が付いたが、普段は多数のミュンヘン勢は気が付かなかった。流石にあれだけ通っているとミュンヘンの顔見知りがいても良さそうだが、気が付かなかった。ザルツブルク周辺の人が多かったと思う。所謂彼ら彼女らは自らがインディゲーネと呼ぶアルプスの土着民が多かった。新聞にも言及があるということは初日にも今までは相対的に目立たなかった客層が主になっていたということになるかもしれない。
個人的に今回無理してでも出かけたいと思った理由の一つがザルツブルク音楽祭の客層への関心であった。邪な関心とはそれで、チャラチャラとした聴衆が減った中でどれほどの文化的地盤がザルツブルクに出来上っているかという状況だ。それも重要な創立の意志であって、同時に地域経済の活力化がはかられた。後者に関しては今回も支配人から語られていたが、前者の文化的な評価の方が重要である。なぜならば、モルティエ監督が目指して最終的に追放されてしまった経緯も地元における文化的な地盤が強ければヴィーンからのハイダーの意向への抵抗となった筈だと考えるからである。
結論からすると、やはりまだ歴史の四分の一ほどに浅いバーデンバーデンなどと比較しても地元の文化的意志は弱い。十五万人程と人口は多くは無いながらも、名門の音楽学校などがあるのだが、そうした学生なども恐らく特に夏休み中だからだろうそれほど目立たない。バーデンバーデンのカールツルー等の都市部とは比較にならないまでも、チューリッヒに近いルツェルンなどに比較してもそうした基盤は薄いと分かる。成程インディアンと新聞にも書かれる訳だ。
それは必ずしも高度な芸術における理解度から印象されるだけでは無くて、なによりもコロナ感染対策への意識から察せられる。どうもインディアンはなにも理解していないようだ。コロナ後にミュンヘンの街中を覘いたことはないが、ヴィースバーデンやドルトムントと経験を重ねてくるとその地域の意識がよく分かるようになってきた。
オーストリア政府がポピュリスト首相によって間違った方向へと進んでしまったことには言及しているが、とどのつまり市民の意識の高さが問われている。バルカン出身者がアルプスの小国にコロナウイルスを持ち込んで来ていることは事実かも知れないが、そうした報道で丁度日本人の様にコロナウイルスなどは下等な連中が感染するものとの意識が強いのではなかろうか。各々の市民が社会的にどのような行動をするべきかが、どうも分かっていない様である。
それは高度な芸術理解以前の問題で、まさしく「コジファンテュッテ」の啓蒙された人々であるかどうかであろう。ザルツブルク音楽祭は、どれほど素晴らしい公演を成功させても、その最も肝心な想いとは外れたところで営んでいる。モーツァルトのザルツブルクの大きな思い違いである。(続く)
参照:
トウモロコシはまだか 2020-08-08 | 生活
ダポンテの最後の啓蒙作品 2020-08-07 | 文化一般
本年は海外からの訪問者は事実上締め出されて、ドイツ語圏を中心に近隣諸国の聴者が対象となって百周年祭が開かれた。そこでこちらが期待したのは、ミュンヘンとヴィーンからの聴衆を中心とした所謂玄人だけでなく高度な質の聴衆であった。しかし初日評に既に批判としてそのことは指摘されていて、聴衆も試されていた。当然のことながら初日は玄人筋を除いても招待客が多くスポンサー会社のお偉いさん方が集っていたのだろう。
その点では、「エレクトラ」二回目の上演に際して、それほどマスク装着義務などを疎かに扱う者はいないかに見えたが、ソーシャルディスタンシングは全くなってはいなかった。ディスペンサーを使う人はミュンヘンからの人のようにも思えた。しかし話し声からすると、ヴィーンは気が付いたが、普段は多数のミュンヘン勢は気が付かなかった。流石にあれだけ通っているとミュンヘンの顔見知りがいても良さそうだが、気が付かなかった。ザルツブルク周辺の人が多かったと思う。所謂彼ら彼女らは自らがインディゲーネと呼ぶアルプスの土着民が多かった。新聞にも言及があるということは初日にも今までは相対的に目立たなかった客層が主になっていたということになるかもしれない。
個人的に今回無理してでも出かけたいと思った理由の一つがザルツブルク音楽祭の客層への関心であった。邪な関心とはそれで、チャラチャラとした聴衆が減った中でどれほどの文化的地盤がザルツブルクに出来上っているかという状況だ。それも重要な創立の意志であって、同時に地域経済の活力化がはかられた。後者に関しては今回も支配人から語られていたが、前者の文化的な評価の方が重要である。なぜならば、モルティエ監督が目指して最終的に追放されてしまった経緯も地元における文化的な地盤が強ければヴィーンからのハイダーの意向への抵抗となった筈だと考えるからである。
結論からすると、やはりまだ歴史の四分の一ほどに浅いバーデンバーデンなどと比較しても地元の文化的意志は弱い。十五万人程と人口は多くは無いながらも、名門の音楽学校などがあるのだが、そうした学生なども恐らく特に夏休み中だからだろうそれほど目立たない。バーデンバーデンのカールツルー等の都市部とは比較にならないまでも、チューリッヒに近いルツェルンなどに比較してもそうした基盤は薄いと分かる。成程インディアンと新聞にも書かれる訳だ。
それは必ずしも高度な芸術における理解度から印象されるだけでは無くて、なによりもコロナ感染対策への意識から察せられる。どうもインディアンはなにも理解していないようだ。コロナ後にミュンヘンの街中を覘いたことはないが、ヴィースバーデンやドルトムントと経験を重ねてくるとその地域の意識がよく分かるようになってきた。
オーストリア政府がポピュリスト首相によって間違った方向へと進んでしまったことには言及しているが、とどのつまり市民の意識の高さが問われている。バルカン出身者がアルプスの小国にコロナウイルスを持ち込んで来ていることは事実かも知れないが、そうした報道で丁度日本人の様にコロナウイルスなどは下等な連中が感染するものとの意識が強いのではなかろうか。各々の市民が社会的にどのような行動をするべきかが、どうも分かっていない様である。
それは高度な芸術理解以前の問題で、まさしく「コジファンテュッテ」の啓蒙された人々であるかどうかであろう。ザルツブルク音楽祭は、どれほど素晴らしい公演を成功させても、その最も肝心な想いとは外れたところで営んでいる。モーツァルトのザルツブルクの大きな思い違いである。(続く)
参照:
トウモロコシはまだか 2020-08-08 | 生活
ダポンテの最後の啓蒙作品 2020-08-07 | 文化一般