Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ゴーゴリの鼻の威厳

2021-10-27 | 
水曜日の第二回公演が中継される。方々で批評記事もネットに出てきている。先ずはそれらに目を通す前に初日の印象を書き留めておく。演出は舞台の奥が見えない席なので、放映を待っていた。しかし音楽的な出来は奈落の上から吟味できた。新音楽監督の劇場指揮者としての腕を吟味したかった。

楽団は以前からの主要奏者を揃えていて、準備はできていた。指揮が異なるので、ペトレンコ時代のような響きはないのだが、矢張り座付き楽団としては並々ならない力を示していた。それだけを見ても新監督ユロウスキーの「チームワーク」が意味するところは明白であり、あとは如何に楽団に動機付けを与えていくかの腕の見せ所だろう。新体制新音楽監督新制作初日の出来としては文句のつけようがなかった。それでもここというときには更に力が入ってくるのが、その指揮と全く同じで、ホケテュスとかパンダの打楽器とか音楽的に面白いとなると精彩を浴びてくる。そこが前任者の一音も漏らさず仕上げてくる尋常ではないスーパーオーパーのやり方と異なる所で、それ以上に音楽劇場上演としての纏まりを重視した指揮だった。

その分若干保守的な印象も免れなかったのだが、現在ドイツの劇場指揮者で質の高いこうした指揮をする人はそれ程いないと思う。言及したようにアトナールの中でもここというところの響きを出したりという拘りがここかしこに聞かれた。但し劇場指揮者としてのキューの出し方などは最低限必要に止めるという感じで、前任者のような親切さはないのではなかろうか。そこまでの余裕がないというのはロンドンフィルハーモニーを指揮して交響曲11番を見た時にも感じた。だから音楽劇場の公演で破綻を帰さないというのが最大限の信念であろうか。それをして初めて公演としての山を築くというのが計算されていて、劇場感覚を自らが吟味しているという印象が強い。

指揮者でもあり音楽的にはドラマテュルギ―を決している。そういえば入り口ロビーに降りていくとペトレンコのアドヴァイザーで劇場でドマラテュルギーを担当していたクラスティング氏を横から見て気が付いた。すると先方も一瞬の視線を感じたのかこちらを確認したようだった。以前から会釈程度はしていたのだが、今年はガルミッシュパルテンキルヘンや「トリスタン」の最後の拍手など方々で顔を合わせていて、ペトレンコの追いかけにあらずで、ベルリンへの土産話しになるだろうか。確かフォアアールベルクには来ていなかったと思うが、こちらやルツェルンではペトレンコに気が付かれている。先方は嘗て仕事をしていたのだから仲間のところで見に来るのは当然なのかもしれない。バーデンバーデンで練習の見学の時にでも見かけたら声を掛けようと思う。こちらも自身のホームをはっきりさせておかないといけない。

歌手陣は、タイトルロールの鼻の持ち主が矢張り優れていたが、たっぷりとロシア語の音楽を浴びれてよかった。「鼻」は22歳ごろの初期の作品であると同時にスターリン時代には二年ほどあるために、若く希望に溢れたボルシュヴィツキのソヴィエト文化とそこから顧みて嘲笑される帝政ロシアがあり、作曲家にとっても学生時代からの両方のかなめにある時期だとインタヴューで語られている。つまり、ここでは後年のようなひねくれた作曲表現はなくて素直にソヴィエトの20年代の前衛が活きているとされて、同時に将来への予知のようなものがあるとしている。演出とともに詳しくは中継映像を見てからとなるのだが、演出家セレブレニコフの腕はとても確かだった。

思われているように自宅軟禁の状態などではなく、公金横領で訴えられているので金を返すまでは国外に出られない状況にあるという。だから支配人のドロニーとユロウスキーは何度もモスクワに計画中に訪問して相談がなされたらしい。なるほど政治的なアピールや援助とは別にそのようにしてでも制作を依頼する価値のある芸術家であることは明らかだった。

そして何よりもその音楽劇場としてのドラマテュルギー感はユロウスキーの音楽運びとともに秀逸であって、丁度の日本の新劇の芝居を見るような心地よさと若干の狭苦しさもあった。この作品自体がそうしたものであると同時に決して小劇場向きの作品でないということからまさしく初期ソヴィエトの芸術なのだろうか。(続く)



参照:
ミュンヘンへの行楽日和 2021-10-25 | アウトドーア・環境
行楽の週末を走る 2021-10-24 | 生活
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