Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2021年10月

2021-10-31 | Weblog-Index


 
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長短調システムの精妙さ 2021-10-30 | 音
赤い風船が飛んでいく高み 2021-10-29 | 文化一般
すかさず手が伸びる 2021-10-28 | 文化一般
ゴーゴリの鼻の威厳 2021-10-27 | 音
伴奏のつけ方の違い 2021-10-26 | 音
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行楽の週末を走る 2021-10-24 | 生活
一人佇んでいたハイティンク 2021-10-23 | マスメディア批評
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二枚目の招待券を確保 2021-10-18 | 文化一般
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漕ぎ着きたい期待の岸 2021-10-15 | 文化一般
全てのものからのお別れ 2021-10-14 | 音
先四週間ぐらいの準備 2021-10-13 | 生活
夏の日差しを思いながら 2021-10-12 | 文化一般
誰かの代わりにしている行為 2021-10-10 | 音
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7月の明かりを求めて 2021-10-08 | 文化一般
全てに向けたお別れの歌 2021-10-07 | 音
課題解決への工程 2021-10-06 | テクニック
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マスク無用の咳仕放題 2021-10-04 | 雑感
綺麗に流せるのだろうか 2021-10-01 | 生活
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カラカラも選択の一つ

2021-10-31 | 文化一般
冬である、冬時間に戻る。連休になるので助かるが、少なくとも日曜日には一時間損をする。金曜日にデジタルコンサートホールの一週間券を購入したので一時間損をする ー 正しくは時計を戻すで、一時間余分に睡眠、得。

それでも一週間後のバーデンバーデンでの日曜朝の練習が決定したので喜びとしておこう。急遽日曜日の早朝の練習が決定した背景にはSWRの放送が入ることになったことがあるだろうが、既に金曜日に生中継して更にスカンディナヴィアからハムブルクに戻り更にローマで演奏するので、四回目の演奏は二度目の収録には早過ぎるような気もする。メンデルスゾーンのスコットランド交響曲の練習が予定されている。一体どれだけよくなるのだろう。

その日曜日の朝の方が遥かに厳しい。土曜日の帰宅は21時過ぎとなるので、23時半頃には床に入るとして、翌朝は6時過ぎに起床しなければ間に合わない。そして本番の演奏会は18時始まりなので、開場迄どこかで過ごすことになる。ピクニック準備の時間もなさそうなので、お昼をどこかで摂って、膝掛を持って行って車中で熟睡か?陽射しがあれば助かるのだが、ないと摂氏12度程なので厳しい。ホッカイロのようなものがどこかに残っているか?

カラカラ浴場は開いているようで、フィルハーモニカーも来ていそうな気がするが、サウナで誰と一緒になるというのだろうか?弦楽のお姉さんたちよりも管のおやじさんたちと一緒になる可能性の方が強い。こちらは泊まりでないと着替えなども面倒なのだ。サウナを入れて三時間で23ユーロだから、自宅と往復するよりは安い。しかし、サウナでも入ったら草臥れるだけではなかろうか、更にこれはというお姉さんの全裸に逆上せてしまうと音楽会の集中力が落ちる。考えものである。ファゴットの毛深そうなおやじらと裸の付き合いも御免である。サウナ以外では、タオルや草履以外にも、水着が必要になる。場所は分かっているので、見学は考えてもいいが、日曜日のその時間はどんな人が来ているのだろうか?フィルハーモニカ―ならば来そうな人の顔が思い浮かぶ。彼らは練習後に風呂に入って飯を食って午睡出来るのでこちらとはやはり条件が異なる。サウナから出て車で寝ていたら酷い風邪を引くに違いない。

引き続き、「マスケラーデ」二幕、三幕と最後まで眼を通した。LPを購入した時の印象と大分異なっていた。音楽的には長短調の聞こえ方が変わってしまったかのような差なのである。楽譜を見ていることもあるのだろうが、やはりあの頃よりは悪く言えば長短調性システムに耳が捉われてしまっていることと、同時に現代のみならずルネッサンス以前の音楽への耳が慣れてしまっていることもあるのかもしれない。より自由に音が聞けるようになった可能性もある。

少なくともあの時点では後期ロマンティックの管弦楽法のその範疇でしか聞けなかったが、流石に微妙なところのモードを使う作曲にも沢山馴染んできたこともあるだろう。二十世紀後半の時点では前半で耳が固まってしまった人を見ていて保守的だなと笑っていたのだが、しかしその時よりも二十一世紀になって遥かに自由になっている自分自身の耳を発見する。

トビアス・クラッツァーの演出に興味が向かう。そもそもオペラブッファをモデルにしていて、原作自体も「フィガロ」などと異なり、更に啓蒙へと進んでいるので、またニールセンの作曲もリヒャルトシュトラウスよりも早く直截な形で古典回帰していて、デンマークの保守的な社会ではかなり社会主義的とされる。歌詞も詳しく研究してみないと分からないが、音楽的にはスプラスティックなものとコメディアデラルデのようなものを合わして、舞台を初演の1906年ほどに置けば上手く嵌まるのではなかろうか。ポロネーズの使い方などもとても参考になるだろう。上手に演出すれば音楽的な価値と共に可也出来の良い音楽劇場制作になる筈だ。少なくとも現在から原作の1724年の舞台を転換しても何ら表現とならないないことは誰にでもわかる。1900年当初にはそれなりの読みが出来たことを考慮する方が重要なのである。



参照:
長短調システムの精妙さ 2021-10-30 | 音
スイスの山小屋で露天風呂 2017-02-15 | アウトドーア・環境
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