Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

すかさず手が伸びる

2021-10-28 | 文化一般
ここに来て感染者数が増えている。つまり隅から隅まで感染が広がって終わりに近づいている。英国の様に600とかいう指数が出始めている。そこから11月25日にはコロナ終結宣言も計画されている。一方、未接種者を守るには彼らに向けてのロックダウンも準備されている。既に接触の制限が予定されている。

バーデンバーデンも225で増え続けている。お年寄りが多い土地柄で死亡者が増えていない限り全く問題がない。祝祭劇場の練習参観に関するお知らせでは2Gになるかもしれないと書いてあった。既に間隔をあけて発券してあり、売り切れにもなっていない公演に適用してもお話しにならない。しかし上のような状況になればそれもあり得るのかもしれない。

そして祝祭劇場のHPを見ると嫌にコンセプショナルな記載がある。それは「マゼッパ」でのチャイコフスキーの創作が、歴史的に基準となっていた独墺ロマンティズムに対抗してのロシア民謡を使ったりの欧化志向でもあり、同時にナショナリズムでもあったのだとある。そしてその二極化は現在のロシアにも通じるとしている。

その序曲1882年のツァーのメロディと今度はそのウクライナを舞台とした反ツァーへの動きの中で、同時に上の独墺ロマンティズムから離れてのナショナリズム的な音楽とそのアイデンティティーの発露が同居しているという見解である。

その意味合いにおいて、交響曲の枠を取りながらの時間のそれとしたシューベルトのロマンティズム、フォンヴェーバーの音楽で始まるプログラムは、ヴェーバーの取り入れたトルコ、ハンガリー音楽をヒンデミート自身のアメリカ亡命を重ねてあると注意を促す。

そしてチャイコフスキーの伝統を受けてのショスタコーヴィッチこそは、ソヴィエトにおけるそのスターリン死去二年目での初演を迎える交響曲。全体主義からの憧れはあくまでも西欧における個人主義。

一体これだけのプログラムコンセプトは、バーデンバーデンでの解析だけではないと思う。支配人スタムパとペトレンコの会話の中でのキーワードから綴られたものかもしれないが、それ以前に先日ミュンヘンで見かけたクラスティング氏のアイデアが見え隠れする。

同時に発表されたのは、SWRでの「マゼッパ」とショスタコーヴィッチプログラムの収録の決定である。実は早朝から朝練習を公開するという連絡があって、一体何事かと思っていたのだが、これで少し狂ったような日曜の朝練の意味が分かった。

今年のペトレンコの指揮とその活動は最初の頂点を迎えているような充実度があるのだが、それを取り巻く我々にも熱が波及してきているような感じさえもする。

フランクフルトのオペラ劇場での「マスケラーダ」初日が週末に迫る。そろそろお勉強をしておかないと一回目の訪問とはいっても肝心なところを聴き逃してしまう。そのあまり期待できない座付き管弦楽を絞め直す為にも現在の音楽監督ヴァイグレはもう一シーズンで契約が切れて、後任人にはベルリンの同じバレンボイム門下から28歳のトーマス・グックアイスが抜擢された。最近はティロルの音楽祭などでも名前を見かけることが多かったので、どのような人かと思っていたら、大出世である。後任候補にはマルヴィッツなども挙がっていたようだが、到底トレーナーとしての腕は期待されないので、それは無理だと分かっていた。これで浪人になるヴァイクレとマルヴィッツの二人はドイツ国内ではとても難しい立場になった。各々上のキャリアを狙うとしてももはや適当なところが見つからなくなっているからである。前者もバレンボイムの後任は荷が重すぎ、後者もニュルンベルクよりも上のところが中々空いていない。ドイツェオパーベルリンぐらいの可能性があるだろうか。

兎に角、若いグックアイスは低バイエルン出身で、少年合唱に続いて十歳からピアノを始めて非音楽的な家庭出身らしいが、おじさんは有名な太鼓叩きだという。ノイフェルツ演出「サロメ」を急遽振ることになって脚光を浴びて、フランクフルトのレェーデ支配人がその現場にいたらしい。その後シュトッツガルトの音楽監督マイスターに請われてアシスタントになって、直ぐにベルリンに引き戻されたのがこのコロナ期間中だったらしいが、そこにフランクフルトからすかさず手が伸びた。



参照:
ゴーゴリの鼻の威厳 2021-10-27 | 音
「聖書」ではないお話し 2021-10-09 | 音
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