日曜日の大初日の批評にざっと目を通した。自分自身の印象とコメントと超えるものはフランクフルタ―アルゲマイネ新聞の批評ぐらいだろうか。その差異が高級紙たる所以であって、ミュンヘンの批評を必ずしも扱っている新聞ではないが世界最高の歌劇場の新体制初日ということで重要な批評となっていた。
しかしほとんど半分は今回の音楽劇場上演への環境を説明していて、芝居の中身に関してはその残りの紙面を使っている。そこで演出家のキリル・セレブニコフがどのような舞台を作っているかである。いつものようにシュールレアリズムとの二元の放物線を描いていて、カフカと同様にそこに実像を描くとなる。つまりここでは「鼻」が無くなる前提を鼻を増やすことで顔につけた勲章としている。それは「鼻」を沢山つけていることがノーマルとすることで、既に明確な宣言をしていて、主人公は端からアウトサイダーであることが示される。
同時に演出家自身がおかれている社会環境にそれが投影されることで、プーティンのイデオロギー社会では、意味の政治的発言や凍り付いた民主主義、キッチュ化された宗教に対して一つしかない鼻のデモ参加者となる。そこには感傷もパトス化も無く、他紙によると、世界こそはフーガであるとなる。
最終景で注目されたのは、弦楽四重奏曲八番に繋がる室内楽演奏である。そこで二つのアパートメントの間で起きる風景はプログラムによるとセルゲイ・ルチィシキン作のそこから風船が飛んでいくという絵から印象されている。そこの窓の一つで首吊りがなされるのだが、空虚で孤独な人生が、赤い風船が飛んでいくときに流れているということになる。一つの鼻の主人公は、酔い心地で少女愛に将来を夢想するということになって、激しく幕が閉じられる。
まさしく劇場空間の時間的な断絶となるのだが ― 上の演出の作り方こそが我々を劇場の壁と現実世界の間でトリップさせることを理解されるだろう ―、この結果をして音楽と舞台がともに高めあう制作はミュンヘンでも長くなかったもので、地元南ドイツ新聞によれば、アウグスト・エファーディンク、サヴァリッシュ、ペーターヨーナス、ズビン・メータ、バッハラー、ナガノ、ペトレンコがなしたことを超えたところでドルニーとユロウスキーがやろうとしたことであり、それは聴衆を驚かすことなく、開かれ、拡大へと向かう、勇気と危険を顧みずになしたとなるが、国立劇場の転機となるだろうかとしている。
少なくとも初日に続いての二日目の中継でもブーなどは全くなく、支持者が集っていたのだろうかと思うほどだ。個人的には故モルティエー一派としては、待ち望んでいた音楽劇場の成果であり、期待に添った出来栄えだった。なるほどミュンヘンの聴衆の多くも同じような認識を共有していてもおかしくはないので、今後の疑問はどの程度の聴衆がついてきてそして新たに増えるかとなる。
新聞には、制作への練習をおろそかにするようなスター歌手は無用で、今後は制作に必要な歌手にしか声が掛からないだろうと書いている。つまり今後はメトとかとの共同制作よりも地元やお隣の芝居劇場との共同制作で、五月のエンゲル、クレンツィス、各々グートやカステルッチとの新制作がなされるとフランクフルターアルゲマイネ新聞は伝える。
そもそも今回の制作においても、初日に声の競演を求めるような向きには失望があったのかもしれないとしていたが、今後はこうした評論や評判などから残席がコロナに関わらずどれほど埋まっていくかなど注目される。初日においても天井桟敷は立ち見などぎっしりだったのを見ると、要するに通向きの音楽劇場となっている。
既にそうした試みは九月からの格安での解放で着々と進められているという見方があって、若い人を中心に問題意識の高い聴衆層が押し寄せるようになれば成功となる。
ユロウスキーの成果に関しては、既に私が言及したチームワークと対位法などで頑張るに尽きる。それだけでも大きな成果であり、より大きな作品での更なる成功が期待されるとある。
20211028 BaySta DieNase Oper DE
参照:
Winterbilder ohne Selbstmitleid, STEPHAN MÖSCH, FAZ vom 27.10.2021
Krachend provokant, Reinhard J. Bremeck, SZ vom 25.10.2021
ゴーゴリの鼻の威厳 2021-10-27 | 音
赤い国を生きた女性 2021-05-23 | 音
しかしほとんど半分は今回の音楽劇場上演への環境を説明していて、芝居の中身に関してはその残りの紙面を使っている。そこで演出家のキリル・セレブニコフがどのような舞台を作っているかである。いつものようにシュールレアリズムとの二元の放物線を描いていて、カフカと同様にそこに実像を描くとなる。つまりここでは「鼻」が無くなる前提を鼻を増やすことで顔につけた勲章としている。それは「鼻」を沢山つけていることがノーマルとすることで、既に明確な宣言をしていて、主人公は端からアウトサイダーであることが示される。
同時に演出家自身がおかれている社会環境にそれが投影されることで、プーティンのイデオロギー社会では、意味の政治的発言や凍り付いた民主主義、キッチュ化された宗教に対して一つしかない鼻のデモ参加者となる。そこには感傷もパトス化も無く、他紙によると、世界こそはフーガであるとなる。
最終景で注目されたのは、弦楽四重奏曲八番に繋がる室内楽演奏である。そこで二つのアパートメントの間で起きる風景はプログラムによるとセルゲイ・ルチィシキン作のそこから風船が飛んでいくという絵から印象されている。そこの窓の一つで首吊りがなされるのだが、空虚で孤独な人生が、赤い風船が飛んでいくときに流れているということになる。一つの鼻の主人公は、酔い心地で少女愛に将来を夢想するということになって、激しく幕が閉じられる。
まさしく劇場空間の時間的な断絶となるのだが ― 上の演出の作り方こそが我々を劇場の壁と現実世界の間でトリップさせることを理解されるだろう ―、この結果をして音楽と舞台がともに高めあう制作はミュンヘンでも長くなかったもので、地元南ドイツ新聞によれば、アウグスト・エファーディンク、サヴァリッシュ、ペーターヨーナス、ズビン・メータ、バッハラー、ナガノ、ペトレンコがなしたことを超えたところでドルニーとユロウスキーがやろうとしたことであり、それは聴衆を驚かすことなく、開かれ、拡大へと向かう、勇気と危険を顧みずになしたとなるが、国立劇場の転機となるだろうかとしている。
少なくとも初日に続いての二日目の中継でもブーなどは全くなく、支持者が集っていたのだろうかと思うほどだ。個人的には故モルティエー一派としては、待ち望んでいた音楽劇場の成果であり、期待に添った出来栄えだった。なるほどミュンヘンの聴衆の多くも同じような認識を共有していてもおかしくはないので、今後の疑問はどの程度の聴衆がついてきてそして新たに増えるかとなる。
新聞には、制作への練習をおろそかにするようなスター歌手は無用で、今後は制作に必要な歌手にしか声が掛からないだろうと書いている。つまり今後はメトとかとの共同制作よりも地元やお隣の芝居劇場との共同制作で、五月のエンゲル、クレンツィス、各々グートやカステルッチとの新制作がなされるとフランクフルターアルゲマイネ新聞は伝える。
そもそも今回の制作においても、初日に声の競演を求めるような向きには失望があったのかもしれないとしていたが、今後はこうした評論や評判などから残席がコロナに関わらずどれほど埋まっていくかなど注目される。初日においても天井桟敷は立ち見などぎっしりだったのを見ると、要するに通向きの音楽劇場となっている。
既にそうした試みは九月からの格安での解放で着々と進められているという見方があって、若い人を中心に問題意識の高い聴衆層が押し寄せるようになれば成功となる。
ユロウスキーの成果に関しては、既に私が言及したチームワークと対位法などで頑張るに尽きる。それだけでも大きな成果であり、より大きな作品での更なる成功が期待されるとある。
20211028 BaySta DieNase Oper DE
参照:
Winterbilder ohne Selbstmitleid, STEPHAN MÖSCH, FAZ vom 27.10.2021
Krachend provokant, Reinhard J. Bremeck, SZ vom 25.10.2021
ゴーゴリの鼻の威厳 2021-10-27 | 音
赤い国を生きた女性 2021-05-23 | 音