(承前)鼻がぐずぐずになってつらかった。しかし、二楽章は特に期待された。なぜならば、バーンスタイン指揮でもここはヴィーナーフィルハーモニカーを指揮した時にはヴィーナーヴァルツァーとなって聴きどころとなっていたので、そのヴィーンから最も離れたブレゲンツではどうなるだろうという興味もあった。少なくとも音楽の基本要素であるレントラーなどのリズム取りはペトレンコ指揮においては拘って出てくるだろうと思っていた。実際にハイティンクなどが振った時とは一段と上手に処理していた。それだけでは勿論この楽章は終わらずにそのリズム取りから殆どショスタコーヴィッチを先行する形でアイロニーばかりでなく、半ば強制的なリズムの支配が生じていて、スフォルツァンドの付け方が正確に出ていた。こういうリズム取りをして柴田南雄などはユダヤ風のしていたが、よく分からない。なぜならばバーンスタイン指揮ではそこまで明確になっていないからで、なにか民族的なものとは必ずしも思えなくなっている。述べたようにショスタコーヴィッチとの共通性をどうしても感じてしまうのだ。
勿論のことペトレンコは既に秋の極東ツアーの予定であったショスタコーヴィッチ交響曲10番などを準備しているわけだが、なにかそちらの方を感じた。特にショスタコーヴィッチにおける反アンチセミティズムへの言及とその関連には興味が行く。マーラーの第九交響曲においても表層的には最も保守的な楽章であると思われるが、ペトレンコによってここまでしっかりしたアクセントがつけられると、過去の交響曲における特に六番などのそれも走馬灯のように流れる。ブレゲンツの晩に最も成功していたのはこの楽章であった。翌晩のフェルトキルヒにおいてもそこのよりデットな残響から更に強いアクセントが刻まれていて、完成度は高まっていた。
そして、楽章の始まる前のそれに負けないほど長い時間を掛けてハンカチ王子よろしく汗拭きをしてから、コンツェルトマイスターが徐に立って調弦を始めた。結局どの楽章も同じぐらいに汗拭きが入念になされて、丁寧にハンカチが指揮台の楽譜の横に戻される儀式が同じように繰り返された。その意味するところは演奏実践上の必然性を超えていたことは分かるのだが、ジョンケージの作品ほど明白ではなかった。
三楽章のロンドブルレスクは、この交響曲において最も注目すべきだと思われるのだが、彼のバーンスタイン指揮でもヴィーナーフィルハーモニカ―ともベルリナーともまた日本でのイスラエルフィルでとももう一つ上手くいかなかった楽章ではないかと思う。要するに何が何だか分からない憑依になってしまうのである。その点でもペトレンコ指揮の流石と思わせたのも束の間、再びのニ長調へとの回帰で天使の降臨とされるトラムペットで上手に外されて、丸潰れになってしまった。同じように終楽章のアダージョにおける惜別へと同じように楽章前に再び長い休憩が取られたので集中は戻ったのだが、矢張り翌晩の出来には至らなかった。
フェルトキルヒでの最終演奏会は、会場の音響によって可也ハードテューンとなった反面、このブルレスクな面とフーガによる対位法の厳格さの対照が鮮やかに描かれた。ペトレンコの棒の下でのフーガは見事に各声部が鳴るのと同時にブルレスクにおけるエモーショナルなピュア―さは見事で、こうして私たちはバーンスタインの呪縛を乗り超えられたと思う。件のF管トラムペットの奏者が同じようにしか演奏できないのは初めから承知しているかのようにペトレンコは異なるアクセントをしっかりとつけてきた。こうしたやり方は歌手が声が出ないときにもお馴染みで、それを見越して雄弁になるのだ ― こういうところでこの演奏会の特別な意味も感じられた。今回の演奏解釈はペトレンコ指揮の交響曲演奏の中ではチャイコフスキー五番と並んでとても成功したものであるが、あの時も座付き楽団のロータリートラムペットが最後まで要らぬ音を出していたことを思い出した。
そのあまりにものコントラストがどういう効果を生じるかと言えば、そのものシェーンベルクがこの曲について語った「もはやマーラーは、この曲においては主体的ではなく、誰かの代わりに創作している。」という言葉を挙げておこう。我々が知っている創作で近いものは、語り手の未完の「モーゼとアロン」かもしれない。だから余計にバーンスタイン指揮演奏では、その主体というものが耳についたのかもしれないのである。(続く)
参照:
音楽芸術のGötterFunke体験 2017-08-14 | 文化一般
響くやり場のない怒り 2020-11-05 | 音
勿論のことペトレンコは既に秋の極東ツアーの予定であったショスタコーヴィッチ交響曲10番などを準備しているわけだが、なにかそちらの方を感じた。特にショスタコーヴィッチにおける反アンチセミティズムへの言及とその関連には興味が行く。マーラーの第九交響曲においても表層的には最も保守的な楽章であると思われるが、ペトレンコによってここまでしっかりしたアクセントがつけられると、過去の交響曲における特に六番などのそれも走馬灯のように流れる。ブレゲンツの晩に最も成功していたのはこの楽章であった。翌晩のフェルトキルヒにおいてもそこのよりデットな残響から更に強いアクセントが刻まれていて、完成度は高まっていた。
そして、楽章の始まる前のそれに負けないほど長い時間を掛けてハンカチ王子よろしく汗拭きをしてから、コンツェルトマイスターが徐に立って調弦を始めた。結局どの楽章も同じぐらいに汗拭きが入念になされて、丁寧にハンカチが指揮台の楽譜の横に戻される儀式が同じように繰り返された。その意味するところは演奏実践上の必然性を超えていたことは分かるのだが、ジョンケージの作品ほど明白ではなかった。
三楽章のロンドブルレスクは、この交響曲において最も注目すべきだと思われるのだが、彼のバーンスタイン指揮でもヴィーナーフィルハーモニカ―ともベルリナーともまた日本でのイスラエルフィルでとももう一つ上手くいかなかった楽章ではないかと思う。要するに何が何だか分からない憑依になってしまうのである。その点でもペトレンコ指揮の流石と思わせたのも束の間、再びのニ長調へとの回帰で天使の降臨とされるトラムペットで上手に外されて、丸潰れになってしまった。同じように終楽章のアダージョにおける惜別へと同じように楽章前に再び長い休憩が取られたので集中は戻ったのだが、矢張り翌晩の出来には至らなかった。
フェルトキルヒでの最終演奏会は、会場の音響によって可也ハードテューンとなった反面、このブルレスクな面とフーガによる対位法の厳格さの対照が鮮やかに描かれた。ペトレンコの棒の下でのフーガは見事に各声部が鳴るのと同時にブルレスクにおけるエモーショナルなピュア―さは見事で、こうして私たちはバーンスタインの呪縛を乗り超えられたと思う。件のF管トラムペットの奏者が同じようにしか演奏できないのは初めから承知しているかのようにペトレンコは異なるアクセントをしっかりとつけてきた。こうしたやり方は歌手が声が出ないときにもお馴染みで、それを見越して雄弁になるのだ ― こういうところでこの演奏会の特別な意味も感じられた。今回の演奏解釈はペトレンコ指揮の交響曲演奏の中ではチャイコフスキー五番と並んでとても成功したものであるが、あの時も座付き楽団のロータリートラムペットが最後まで要らぬ音を出していたことを思い出した。
そのあまりにものコントラストがどういう効果を生じるかと言えば、そのものシェーンベルクがこの曲について語った「もはやマーラーは、この曲においては主体的ではなく、誰かの代わりに創作している。」という言葉を挙げておこう。我々が知っている創作で近いものは、語り手の未完の「モーゼとアロン」かもしれない。だから余計にバーンスタイン指揮演奏では、その主体というものが耳についたのかもしれないのである。(続く)
参照:
音楽芸術のGötterFunke体験 2017-08-14 | 文化一般
響くやり場のない怒り 2020-11-05 | 音