頭が痛い。まだ年内十四回公演の僅か二回目で可也来ている。今後どうなることか。最高記録を出した十代の時も最後の数か月は完全にバテテいて、もう意地だけで音楽会に通っていた。あの当時はお勉強も真面にしていなかったのだが、勿論ツボも押さえていなかった。でも今の方が集中度は高く、お勉強をすればするほどきつくなる。
録音準備をしていたのだが二つとも間違った時刻を入れていたようで、録音出来ず。キャッシュも取れずで、ペトレンコ指揮ブレゲンツでのマーラーの九番は比較的マシなオンデマンドを録音しておいた。シュヴェツィンゲンにはナヴィが働かずに間違って走ってしまった。それでも何とかたどり着いたが、途上で写真撮影がなかったかとびくびくする。知らない道を走るときは不安だ。
中継はまたどこかで再放送で聴きたいと思うが、コンサートはとてもよかった。歌曲の夕べとしては可也満足度が高かった。やはりドイツで最も注目度の高いヘルムヘェンのピアノがプラスアルファーとして、この夜だけでなく秋に順延されたこの音楽祭のハイライトではなかったか。しかし、同じドイツのレヴィットとかの派手なライトは当たらない。それでも伴奏をしていても名人のフーバーなどとは全く異なるピアノを弾く。
合わせ物では、ベルリナーフィルハーモニカーのつけ方とかいろいろあるが、明らかにスター演奏家の伴奏で、似たケースではフィシャーディースカウにつけたブレンデルとかを思い出す。それよりも全く表には出てこないばかりか音楽の形や和声の色合いやリズム的な骨子をしっかりと押さえていて、室内楽奏者としても第一級のピアニストだなと思った。特に独墺音楽ではこの人を超える人はいないのではないかと思わせた。それでもとても今日的な感覚が新鮮で、久しぶりの本格的なドイツのピアニストでないかなと思う。
それに負けないだけの本格的な歌をプレガルディアンが披露した。技術的な精査とかは放送で聴いていたその通りだったが、先ず何よりも声が大きい。これはマイクを通しては分からなかったが、あれだけの声があれば、まだ大きなところで歌える。そしてヴュルツブルクの無観客では聴かせなかった熱の入り方は流石で、今回のプログラミングコンセプトにそれが生かされていた。つまり、新曲を上手く嚙ませながらこの二年間の総決算をしながら記録とするだけの演奏会としていた。「Hingabe」の作曲家ツィマーマンも来ていて祝福を受けていたが、とてもいいプログラムになっていた。
二月にはバーデンバーデンでの無観客でも歌っていたのだが、まさしくマイヤーホーファー作曲の歌詞「彼はひとり、そして何にもならない。歌手もその通り」、全く以てその通りなのを如実に示してくれた。技術の洗練だけでは歌にはならない。その意味からも、「月光ソナタ」も弾いたヘルムヒェンの演奏実践は明らかに当日聴いたアラウのものよりも良かった。とてもいい弱拍の解決をしていた。これはまさしく逆説的にドイツ音楽のアウフタクトがとても自然に打てているということであろう。
なるほど芸術歌曲演奏会なんて余程歌手に魅力があるとかのオペラ歌手の余興的な興行が殆どであるが、それを本格的に芸術として催すとどうなるかという一つの手本であろう。そしてこういう公演を行えるタレントはそんなにいないと思う。そういうことでは八月に聴いた「冬の旅」のネゼセガンのピアノでは矢張り物足りない。技術ではなくて音楽表現という意味で足りないのである。例えばユジャワンが誰かと合わせてそこまでするのも大変難しい。
昨年とは異なり10月末なので庭を歩くなど到底無理だった。矢張り九月頃がいい。今回は初めて腕輪を嵌められた。シャツの下に隠れるので問題は全くなかった。会場は満席使用では追加で余り売れなかったようで、売れていた筈の前の席も空いていて、昨年並みだった。丁度安い席の始まる36ユーロだったので、大変お得だった。そもそも歌手がこちらを向く場所を選んだが、目線もよく合った。
参照:
金を取れるということは 2021-07-06 | 女
シュヴェツィンゲンから中継 2020-10-25 | 音
録音準備をしていたのだが二つとも間違った時刻を入れていたようで、録音出来ず。キャッシュも取れずで、ペトレンコ指揮ブレゲンツでのマーラーの九番は比較的マシなオンデマンドを録音しておいた。シュヴェツィンゲンにはナヴィが働かずに間違って走ってしまった。それでも何とかたどり着いたが、途上で写真撮影がなかったかとびくびくする。知らない道を走るときは不安だ。
中継はまたどこかで再放送で聴きたいと思うが、コンサートはとてもよかった。歌曲の夕べとしては可也満足度が高かった。やはりドイツで最も注目度の高いヘルムヘェンのピアノがプラスアルファーとして、この夜だけでなく秋に順延されたこの音楽祭のハイライトではなかったか。しかし、同じドイツのレヴィットとかの派手なライトは当たらない。それでも伴奏をしていても名人のフーバーなどとは全く異なるピアノを弾く。
合わせ物では、ベルリナーフィルハーモニカーのつけ方とかいろいろあるが、明らかにスター演奏家の伴奏で、似たケースではフィシャーディースカウにつけたブレンデルとかを思い出す。それよりも全く表には出てこないばかりか音楽の形や和声の色合いやリズム的な骨子をしっかりと押さえていて、室内楽奏者としても第一級のピアニストだなと思った。特に独墺音楽ではこの人を超える人はいないのではないかと思わせた。それでもとても今日的な感覚が新鮮で、久しぶりの本格的なドイツのピアニストでないかなと思う。
それに負けないだけの本格的な歌をプレガルディアンが披露した。技術的な精査とかは放送で聴いていたその通りだったが、先ず何よりも声が大きい。これはマイクを通しては分からなかったが、あれだけの声があれば、まだ大きなところで歌える。そしてヴュルツブルクの無観客では聴かせなかった熱の入り方は流石で、今回のプログラミングコンセプトにそれが生かされていた。つまり、新曲を上手く嚙ませながらこの二年間の総決算をしながら記録とするだけの演奏会としていた。「Hingabe」の作曲家ツィマーマンも来ていて祝福を受けていたが、とてもいいプログラムになっていた。
二月にはバーデンバーデンでの無観客でも歌っていたのだが、まさしくマイヤーホーファー作曲の歌詞「彼はひとり、そして何にもならない。歌手もその通り」、全く以てその通りなのを如実に示してくれた。技術の洗練だけでは歌にはならない。その意味からも、「月光ソナタ」も弾いたヘルムヒェンの演奏実践は明らかに当日聴いたアラウのものよりも良かった。とてもいい弱拍の解決をしていた。これはまさしく逆説的にドイツ音楽のアウフタクトがとても自然に打てているということであろう。
なるほど芸術歌曲演奏会なんて余程歌手に魅力があるとかのオペラ歌手の余興的な興行が殆どであるが、それを本格的に芸術として催すとどうなるかという一つの手本であろう。そしてこういう公演を行えるタレントはそんなにいないと思う。そういうことでは八月に聴いた「冬の旅」のネゼセガンのピアノでは矢張り物足りない。技術ではなくて音楽表現という意味で足りないのである。例えばユジャワンが誰かと合わせてそこまでするのも大変難しい。
昨年とは異なり10月末なので庭を歩くなど到底無理だった。矢張り九月頃がいい。今回は初めて腕輪を嵌められた。シャツの下に隠れるので問題は全くなかった。会場は満席使用では追加で余り売れなかったようで、売れていた筈の前の席も空いていて、昨年並みだった。丁度安い席の始まる36ユーロだったので、大変お得だった。そもそも歌手がこちらを向く場所を選んだが、目線もよく合った。
参照:
金を取れるということは 2021-07-06 | 女
シュヴェツィンゲンから中継 2020-10-25 | 音