シーズン初日から音楽祭ツアー最終日へと聴いた。その二つのプログラムの裏の二つ目は、ルクセムブルクで最後の演奏となったが、それに相応しかった。一つ目の表のプログラムは、秋の極東ツアーへと引き継がれるので、直前の11月に壮行演奏会で再び聴く。だから、先ずは裏について記録しておく。
ルツェルンとルクセムブルクのホールは、現在欧州での現代的なシューボックス型としては最高峰のホールである。この二つを音響として比較する場合は、舞台と客席の差異がない前者とより小さい後者とされるのだが、今回直接比較してみての感想は明らかだった。前者の方がどの席にいても圧倒的に間接音が多い。そしてその間接音は自然減衰するので幾らでも音を鳴らせる。恐らく彼のショルティ指揮シカゴ交響楽団をここで聴いていたら、喧しくなかったのではないかと思う。それほど音が自然に広がる世界一のホールでもある。そして後者ではより反響する天井に近いところで、即ち舞台上で上から跳ね返ってくる前にその音を聴いた。そして距離感も短いので直接音との差異は殆どないぐらいで、マイクで録れるぐらいの音を耳にした。
それによって得られたものは計りなく大きかった。先ずはブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」では明らかにルツェルンと異なったのは第六変奏における木管の休止前の音の出し方であり、即ち四分二拍子でただ最後の八分音が休止になっているというだけなのだが、こういうのがしっかりと音出しできていないと、ブラームスの交響曲四番などは演奏できないのだ。2017年のペトレンコの初訪日から帰って来ての凱旋公演のミュンヘンで苦労していたのがその木管陣だった。
ベルリンでの定期公演の一月からどんどんと修正してきていて、そして明らかに11月の交響曲四番再演への準備への奨励となっているようにしか聴こえなかった。管と弦のバランスなどを考えるにつけ、実は表プログラムでも明らかになっていたのはその運弓とヴィヴラートのかけかたそしてその音の響かせ方が新しいコンツェルトマイスタリン加入を機に特に課題とされていたものだが、ここではレーガーとブラームスとの関連において、その変奏曲に知的なものに留まらず音楽実践として光が当てられた。
その様にすることでどういう効果が現れるかというと、やはりリズム的な精査と共に長短調システムの中でも点描的な陰影が作られるということであって、20世紀の後半には所謂カラヤンサウンドとかオーマンディサウンドとかで時代を制した大管弦楽の響きから脱するということでもある。その時代に今回の表プログラムのレーガーや同夜シェ―ベルクなどがあまり演奏される余地がなかったという事実を裏打している。
実はこのことを指揮者フルトヴェングラーの芸術として振り返る時に、その調性と押し込められたりするリズムそしてそのテムピ変化を思い描くとそこに聴こえてくるのはシェ―ンベルクの12音技法の作品とその表現方法ではなかろうか。
そしてブラームスの先進性としてシェーンベルクが言及しているのは、ブラームスのチェロソナタヘ長調における主題の素早い変遷。その意味からはベートーヴェンの交響曲八番における誤った調性への連結も、必ずしも村のバンドの演奏の模倣の遊び心だけではないとなるのだ。(続く)
参照:
旅絵日記週末編 2023-09-04 | 文化一般
見事な素材とその出し方 2023-09-01 | 雑感
ルツェルンとルクセムブルクのホールは、現在欧州での現代的なシューボックス型としては最高峰のホールである。この二つを音響として比較する場合は、舞台と客席の差異がない前者とより小さい後者とされるのだが、今回直接比較してみての感想は明らかだった。前者の方がどの席にいても圧倒的に間接音が多い。そしてその間接音は自然減衰するので幾らでも音を鳴らせる。恐らく彼のショルティ指揮シカゴ交響楽団をここで聴いていたら、喧しくなかったのではないかと思う。それほど音が自然に広がる世界一のホールでもある。そして後者ではより反響する天井に近いところで、即ち舞台上で上から跳ね返ってくる前にその音を聴いた。そして距離感も短いので直接音との差異は殆どないぐらいで、マイクで録れるぐらいの音を耳にした。
それによって得られたものは計りなく大きかった。先ずはブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」では明らかにルツェルンと異なったのは第六変奏における木管の休止前の音の出し方であり、即ち四分二拍子でただ最後の八分音が休止になっているというだけなのだが、こういうのがしっかりと音出しできていないと、ブラームスの交響曲四番などは演奏できないのだ。2017年のペトレンコの初訪日から帰って来ての凱旋公演のミュンヘンで苦労していたのがその木管陣だった。
ベルリンでの定期公演の一月からどんどんと修正してきていて、そして明らかに11月の交響曲四番再演への準備への奨励となっているようにしか聴こえなかった。管と弦のバランスなどを考えるにつけ、実は表プログラムでも明らかになっていたのはその運弓とヴィヴラートのかけかたそしてその音の響かせ方が新しいコンツェルトマイスタリン加入を機に特に課題とされていたものだが、ここではレーガーとブラームスとの関連において、その変奏曲に知的なものに留まらず音楽実践として光が当てられた。
その様にすることでどういう効果が現れるかというと、やはりリズム的な精査と共に長短調システムの中でも点描的な陰影が作られるということであって、20世紀の後半には所謂カラヤンサウンドとかオーマンディサウンドとかで時代を制した大管弦楽の響きから脱するということでもある。その時代に今回の表プログラムのレーガーや同夜シェ―ベルクなどがあまり演奏される余地がなかったという事実を裏打している。
実はこのことを指揮者フルトヴェングラーの芸術として振り返る時に、その調性と押し込められたりするリズムそしてそのテムピ変化を思い描くとそこに聴こえてくるのはシェ―ンベルクの12音技法の作品とその表現方法ではなかろうか。
そしてブラームスの先進性としてシェーンベルクが言及しているのは、ブラームスのチェロソナタヘ長調における主題の素早い変遷。その意味からはベートーヴェンの交響曲八番における誤った調性への連結も、必ずしも村のバンドの演奏の模倣の遊び心だけではないとなるのだ。(続く)
参照:
旅絵日記週末編 2023-09-04 | 文化一般
見事な素材とその出し方 2023-09-01 | 雑感