フィリー、フィラデルフィア管弦楽団を聴いた。合わせて三回目だと思う。最初はムーティ指揮の日本での公演で、二回目はルクセムブルクでの現在の体制になってからである。オーマンディ時代は聴いていない、アメリカの管弦楽団にあまり興味がなかったからである。前回聴いた時もその技量の程度を見極めたかった。超一流管弦楽団であっても世界でどの位置にあたるかを見極めたかった、それによってペトレンコ指揮でのベルリナーフィルハーモニカーを位置づけたかったからだ。
夏のメトの管弦楽団は態々飛んできてコンサートをやる価値は全くなかったが、フィラデルフィアは何度でも聴きたい楽団である。なるほど全盛期のコンセルトヘボ楽団のような精妙なアンサムブルはないのだが、カーティス音楽院でのエリート教育の集団で、そこのサウンドが培われている。
ホームでもそうな様に前半と後半では面子が変わり、前半の協奏曲などでは若手の前座みたいな管楽器奏者が並び、後半は交響曲などでその管楽陣がサウンドの核となっている。木管でもクラリネットのモラーレス以外はファゴットのマツカワなどまだ若いので暫くはまだよくなるのではないか。金管も弦に合って、ニューヨークの様に脂漲らない、しなやかさはホルンの女性のそれにも象徴されている。要するにオーマンディー時代とはまた違う美質がみられるということだろう。
どうしてもより12年程古いコンセルトヘボウと比較してしまうのはやはりアメリカン配置を取っている欧州の楽団だからということもあるのだが、そのガラミヤンなどの系列の弦楽陣のしなやかさは比較したくなるものでもある。
初日の最後に一人からの結構明確なブーが飛んだ。指揮者のネゼセガンに向けられたものだ。確かに営業的にも倒産したようなこの楽団を率いるだけの実力はあるのだが、指揮技術だけでなくて音楽的能力からして現在の世界最高の指揮者の位置にいるような指揮者ではない。
ラディオ生中継番組でモデレーターとして音楽を広い聴衆に紹介して働きかけるだけの能力が高いのは、ドイツでの女性の筆頭格のマルヴィッツなどにも共通している。しかしベルリナーフィルハーモニカーの後任候補として挙がっていた時も尻振りと言われた指揮やパルジファルなど難しい作品の指揮ではその才能の至らないのを見せつけていた。
そして今回、前半の協奏曲においてもあれほど迄の放送では世界の大ソリスツと息の合った演奏指揮をしているようなそぶりをしているに拘わらず、音を被せてしまうのである。頭を合わせてもそれ以上の指揮が出来ていない限り、ペトレンコの様に影のように出たり入ったりするような絶妙な伴奏などは出来ない。
それでも何故歌手には評判がよいのか?恐らくそれは長く拍節を跨ぐような歌い方が出来ないリズムが刻めないというのは、そのもの指揮者自身が合唱出身ということで、息継ぎを越えての大きな弧を描く様な音楽的な才能が始めから無かったということになる。二三流の指揮者ならそれで済むのだが、流石に現在の地位からすると到底受け入れられないというブーの意思は手に取る様に分かるのである。(続く)
参照:
ビッグファイヴの四つ目 2018-05-28 | 文化一般
不安の時代に最高の言語 2018-06-06 | 音
夏のメトの管弦楽団は態々飛んできてコンサートをやる価値は全くなかったが、フィラデルフィアは何度でも聴きたい楽団である。なるほど全盛期のコンセルトヘボ楽団のような精妙なアンサムブルはないのだが、カーティス音楽院でのエリート教育の集団で、そこのサウンドが培われている。
ホームでもそうな様に前半と後半では面子が変わり、前半の協奏曲などでは若手の前座みたいな管楽器奏者が並び、後半は交響曲などでその管楽陣がサウンドの核となっている。木管でもクラリネットのモラーレス以外はファゴットのマツカワなどまだ若いので暫くはまだよくなるのではないか。金管も弦に合って、ニューヨークの様に脂漲らない、しなやかさはホルンの女性のそれにも象徴されている。要するにオーマンディー時代とはまた違う美質がみられるということだろう。
どうしてもより12年程古いコンセルトヘボウと比較してしまうのはやはりアメリカン配置を取っている欧州の楽団だからということもあるのだが、そのガラミヤンなどの系列の弦楽陣のしなやかさは比較したくなるものでもある。
初日の最後に一人からの結構明確なブーが飛んだ。指揮者のネゼセガンに向けられたものだ。確かに営業的にも倒産したようなこの楽団を率いるだけの実力はあるのだが、指揮技術だけでなくて音楽的能力からして現在の世界最高の指揮者の位置にいるような指揮者ではない。
ラディオ生中継番組でモデレーターとして音楽を広い聴衆に紹介して働きかけるだけの能力が高いのは、ドイツでの女性の筆頭格のマルヴィッツなどにも共通している。しかしベルリナーフィルハーモニカーの後任候補として挙がっていた時も尻振りと言われた指揮やパルジファルなど難しい作品の指揮ではその才能の至らないのを見せつけていた。
そして今回、前半の協奏曲においてもあれほど迄の放送では世界の大ソリスツと息の合った演奏指揮をしているようなそぶりをしているに拘わらず、音を被せてしまうのである。頭を合わせてもそれ以上の指揮が出来ていない限り、ペトレンコの様に影のように出たり入ったりするような絶妙な伴奏などは出来ない。
それでも何故歌手には評判がよいのか?恐らくそれは長く拍節を跨ぐような歌い方が出来ないリズムが刻めないというのは、そのもの指揮者自身が合唱出身ということで、息継ぎを越えての大きな弧を描く様な音楽的な才能が始めから無かったということになる。二三流の指揮者ならそれで済むのだが、流石に現在の地位からすると到底受け入れられないというブーの意思は手に取る様に分かるのである。(続く)
参照:
ビッグファイヴの四つ目 2018-05-28 | 文化一般
不安の時代に最高の言語 2018-06-06 | 音