Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ピアノを弾くのも野蛮

2023-11-11 | 
今年最後の音楽会だった。ローマの聖チェチーリア管弦楽団と18年間そこに君臨した指揮者パパーノによる最後のツアーだった。興味ありどころはこれだけの長い体制は最近では珍しく最後まで上手く行っている様子であった。指揮者の指示も楽員の力量も発揮できていると確認できた。

特に最近お国ものを振ったインキネン指揮の酷い演奏で聴いたシベリウスの「エンサガ」は見事な演奏で、往路に車中で聴いたヴァンスカ指揮交響楽団のものよりも良かった。サイモン・ラトルなど英国の指揮者はシベリウスを得意にしているというのを改めて感じた。

その演奏もとても制御されていて、それが曲の構造や魅力を明らかにしていたのは、勿論その演奏技術上の秀逸さでもあった。同時に一曲目のケルビーニの序曲でも兎に角カンタービレの歌い方が統一されていて心地よい。それはとても近親関係にあるベートーヴェンのピアノ協奏曲三番ハ短調においても如実に表れていた。

なによりもカンタービレが音の頂点で山を作って歌うという原則が徹底していて、それによって弦楽だけでなく音が明るく輝く。勿論バロック以降の所謂長短調システムがそれによって輝く。これは、最後の曲のリヒャルトシュトラウス作曲「ティルオイレンシュピーゲルの愉快ないらずら」で顕著になるのだが、所謂後期ロマン派における調性によるグラデーションには遥かに遠い。

要するにとてもバロック的に単純化されることになる。作曲がそれ以上でもないということになるかというと、やはり正しい歌い方をすればそれ以上の趣が浮かび上がるということでしかない。

このオペラ界の頂点に君臨する英国の指揮者がなぜミュンヘンやベルリンでの活動の契約に至らなかったかはこれで明白になっていて、パパーノ本人が誰よりも自らを知っているということでしかないだろう。

ピアノを弾いたレヴィットの演奏は、想定よりも酷かった。以前聴いた時は亡くなった作曲家レジョエスキーとのデュオリサイタルでそこ迄は目立たなかったのだが、そのリズムも取れないピアノのみならず舞台上で芸術家気取りの態度など、なるほどその政治的なスタンスとは別に殺害予告をされても仕方のない音楽家だと思った。自分で合わせることも儘ならないのに楽団の演奏を聴くふりをして、指揮振りやピアノに指を走らせたりしても実質が全く伴わないのには腹立ちさしか感じさせない ー それどころか今の世界情勢の中で、第二楽章の管弦楽演奏時に譜面台の上縁に肘を乗せて、手を組んで拝んだパフォーマンスはもう決して許せない。先日のネゼサガンと相似するそれは音楽的に大きな弧を描くだけのリズムを維持できないということでしかない。

先週末に聴いたトリアノフのピアニズムを知って「僕もピアノが弾けたなら」と書いたが、レヴィットを聴いて「こんなピアノを弾くのは野蛮だ」と僕は言いたい。少なくともこの程度ぐらいなら僕なら趣味でも弾かない。

さて、この楽団が南のベルリナーフィルハーモニカーかと言えばそれは比較にならない。幾つもの美点はあるのだが、一つことしかできない点では座付き楽団のヴィーナーフィルハーモニカーに近い。要するに機能的な交響楽団ではない。それはキリル・ペトレンコがこの楽団を振ってシュ-ベルトの交響曲中継映像で分かっていた。



参照:
もっとシムプルに行きたい 2021-07-14 | マスメディア批評
ローマからの生中継 2023-01-22 | 文化一般
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